君の隣に尺八
□尺八と物の怪
1ページ/1ページ
「ちわーっす」
「おっ、淳平、また来てくれたんだね」
次の日の放課後、部室を訪ねてみると、呪文の書が床に散らばって……いなかった。一安心する。
譜面台に都山譜とかいうカタカナの楽譜を乗せて立奏しているのは、たけはる先輩だ。
今日ばかりは、その笑顔に胸を撫で下ろす。
「よかった、今日はいて……。昨日は、たけはる先輩を待つっていう名目で、須藤さんにしごかれたんですから」
思い出すだけでげんなりしていると、彼女は人差し指を顎につけてちょっと上を見た。
「ああ、昨日はバイトで来られなかったんだ。須藤さんには言った気がするんだけどな」
「ん?」
ひょっとして、俺、須藤さんに騙されて、尺八レッスンを?
頭をぶんぶん振って、彼の人の良さそうな笑みをとりあえず追い出す。
「まあ、いいや。今日は質問があって」
「んー、何何? 和泉さんのこと?」
「いや、違っ違わな……違います! それも気になるけど」
俺は、こほんと咳ばらいをして、部室の入り口に目をやった。
何の変哲もない引き戸。上には茶色い天井があるだけ。
「一昨日の、あれ、なんですけど」
声を潜めてしまう。何に聞かれているわけでもないというのに。
たけはる先輩は、きょとんとしてテーブルの前に座り、新歓用と思われるお菓子の袋を開ける。
「まあ、煎餅でも食べなよ。何が疑問なのかよくわからないけど」
「いや、わからないことしかないですよ。だって、俺、霊能力とか何もないはずなのに、あの尺八を持ったら突然化け物が見えて、尺八の音とともに消えていって……」
「そこまでわかってるなら、簡単じゃん」
彼女が、ばりっと煎餅を噛む。
「幻の尺八には、物の怪を祓う力がある。淳平は、その尺八に選ばれたんだよ」
情報の処理が追いつかず、黙ってしまう俺。
もぐもぐと、彼女が、言葉を続ける。
「ところでさ、これは見えてないの?」
「は?」
彼女が、俺の横を指さす。
首を90度回転させる。
特に何もないように見える。ちょっと不気味になって体を寄せた。
「ふーん。じゃあ、ちょっと尺八構えてみて」
話題を変えるようなその言葉に、そそくさとリュックから竹の棒を取り出す。
何故かいつも気づいたらリュックに入っているので、もはや置いてくるのが面倒になってしまった。
穴が1個のほうが裏で、4個のほうが表。中指は穴のないところに置いて、人差し指と薬指をそれぞれ……。
「っうぉあ!?」
素っ頓狂な声が飛び出る。
尺八を手に何気なく横を見ると、先ほどまで何もいなかった俺の隣に、黒いもやのような人影があった。
「こっ、これっ、は?」
「やっぱり幻の尺八すごいなあ。さっきまで全然気づいてなかったのに」
たけはる先輩は、特に気にする風でもなく、2袋目の煎餅に手をかけている。
「まあ、このレベルまで相手してたらキリがないんだけどね。これとか一昨日のあれは、怨念を抱いたまま死んだ人の魂みたいなもの──いわゆる物の怪。このサークル会館全体には、一昨日のあれとこいつの2つがいたんだけど、特に害も無さそうだから放置してたんだよねー」
「え、いいんですか、それで?」
あたふたと、俺は、たけはる先輩の影に隠れようとする。我ながら情けない。
彼女は、右手で煎餅を口に運びながら、左手で俺の手の中を指さした。
「吹いてみなよ、それ」
昨日たくさん練習したんでしょ、という言葉は、煎餅をかじる音に混ざってよくわからなかった。
彼女に従う以外の術はなく、俺は尺八を口に近づけた。
息はまっすぐ前に。
歌口に当てる感じ。
余計な力は入れない。
須藤さんや和泉さんに言われた言葉を反芻して、息を乗せる。
ふおーっ
「うん、上手い上手い」
如何にも何も考えていないようなたけはる先輩の褒め言葉と同時に、視界の黒いもやは消えていった。
部室には、煎餅をかじるばりばりという音だけが響いていた。
ぼーっとしていると、煎餅を一つ渡される。
俺は尺八を置いて、煎餅を受け取った。
「いや、あの、聞きたいこと、いっぱいあるんですけど」
何となく食べる気にならず、彼女に問いかけてみる。
「ん?」
「何者なんですか、あなた」
彼女は、ゆっくり口の中の煎餅を飲み込んだ。
「えー、教えてあげてもいいけど、」
空の袋をくるくると結びながら、
「その代わり、尺八部に入ってね」