君の隣に尺八
□尺八の楽譜
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「ちわーっす」
そおっとふすまを開けると、床には一面、呪文の書が広がっていた。
「ひっ……」
「やあ、淳平くん。来てくれたんだね、嬉しいよ」
それの中心にいる須藤さんとかいう大学院生が、おどろおどろしい文字の羅列とは対照的に、にこやかに俺を迎え入れる。
俺は、どこを見ていいのかわからずに、彼と紙を交互に見る。
「こ、これは一体何の呪いを……」
いつでも逃げられるように後ずさりながら、一応聞いてみる。
昨日の怪物といい、この怪しげな大量の紙といい、やっぱりこの楽器は、人智の理解を超えた訳のわからないものに違いない。
「ああ、これ? いや、呪いなんかじゃないよ。楽譜だよ。琴古流の楽譜」
「きんこりゅう?」
「ほら、よく見るとロツレチリって書いてあるだろう。ハとかウもたまに出てくるけど。でね、この文字の横にある点が右にあるときが表拍で、左にあるときが裏拍なんだ。あと、この線が一本のときは八分音符で、二重線のときは十六分音符って考えるとわかりやすいかな」
いまいちわかりやすくない説明をマシンガンのように浴びせられながら、楽譜と言われたそれを見る。古文書のようにしか見えないが、楽譜、らしい。
「まあ、基本的にうちはあんまり琴古はやっていなくて、僕の個人的な趣味さ。普段は都山流っていうもう少しわかりやすい楽譜を扱ってるよ」
須藤さんのリュックからこれまた大量の紙が出てくる。俺は、靴を脱いで部屋に上がった。
「尺八の楽譜は縦譜でね、都山流ではロツレチハで書いてあるんだ。ロツレチハっていうのは、指のポジションの名前で、尺八は穴が5個あるけど、全部塞いだのがロ、1個開けたのがツ……って感じになってるんだよ。一尺八寸管ではロツレチハがDFGAC、つまりピアノのレファソラドにあたるわけだけど……」
「あの」
小節と思われる四角い枠で区切られていて、琴古流よりも少しは見やすい楽譜を見せてくる彼を遮る。
今日の目的は尺八の楽譜を見せてもらうことではない。
「昨日のあれは、何だったんでしょう」
金澤の登場でなあなあになってそのまま解散になってしまったが、昨日、俺は物凄い超常現象に遭遇してしまった。
黒い化け物。
幻の尺八。
自分の音とともに消えていく、それ。
自分の手元に急に現れたもののことを、俺は何も知らない。
怖いとも気味が悪いとも思わないが、知りたいと、ただそれだけ思った。
なんて格好つけておくが、昨日の夜、風呂でビクビクしながら何回も後ろを振り返ったのは、内緒である。
「え? だから、その尺八は幻の尺八なんだから、そういうことだよ」
この人の説明は、無駄に長い割に重要なことは省くということだけはわかった。
「ですから、どういうことなんですか」
「いや、僕もね、詳しいことはわからないんだ。普通の尺八の説明ならできるけど、幻の尺八については正直よくわからない。多分、たけはるに聞いたほうがいいと思うよ。あいつ、なんかそういうのに敏感らしいし」
「はあ……」
「ということで、たけはるを待つ間に尺八を吹こうか、さあ!」
「いや、今日は持ってきてないので……って、何であるんだー!?」
「よし、まずは何も押さえないヒの音を吹いてみよう!」
結局その日、たけはる先輩は現れず、ほんのちょっと尺八が上達しただけの放課後だった。