君の隣に尺八
□青年の手に尺八
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「は……?」
「まさか、これを目にする日が来るなんて……。俺は一体、前世でどんな良い行いをしたんだろう」
うっとりとそれを眺めながら、眼鏡の青年はブツブツと呟いた。
「はあ、このフォルムの曲線美が何とも言えないな。手孔の位置も完璧だ。歌口のこの角度も、美しいなんて言葉じゃ表しきれない。この感動はどう表現すればいいんだ?」
俺はだんだん背筋に寒気が走って、逃げ出したくなった。
何なんだ、この兄ちゃん。気持ち悪すぎるだろ。
呆気にとられる俺、やれやれといった表情の女の先輩、恍惚と何やら呟いている青年というおかしな空間。
現実に引き戻してくれたのは、ふすまの開く音だった。
「お疲れ様です。……あら、新入生?」
声の方向に顔を向ける。ふわりといい香りがした。
「あ、和泉さん、お疲れ様です」
「たけはる、この状況はどういうことなの?」
部屋に入ってきた「和泉さん」と呼ばれたその女性は、ブツブツ呟いている青年を一瞥し、首を傾げた。少しクセのある長い黒髪が揺れる。
俺は息を呑んだ。
透明感のある肌。切れ長の目。薄くてほんのりピンク色の唇。スラリと長い手足。
誰が見ても美女というわけではないが、少なくとも俺の中では……。
ポーッとしている俺をよそに、「たけはる」と呼ばれた俺を拉致してきた先輩が答える。
「この子、尺八持ってたから、てっきり例の金澤くんかなって思って連れてきたんですけど、人違いだったみたいなんですよ。そしたら、須藤さんが急に現れて、この子の尺八は素晴らしいとか何とか自分の世界に入っちゃって……。和泉さん、何とかしてくださいよ」
「なるほどねえ……」
和泉さんが再び「須藤さん」と呼ばれた青年(まだ独り言を呟いている)に冷たい視線を浴びせたあと、俺に向かった。柔らかく微笑む。
「ごめんね。急に連れてきて、こんな変なとこ見せちゃって。私は、この尺八部3年の東郷和泉です。お名前を聞いてもいい?」
「あ、えっと、1年の山岸淳平です」
まっすぐに見つめられて、思わず緊張する。
和泉さんは、微笑んだまま続けた。
「淳平くんね。うちは尺八部っていって、和楽器の尺八を演奏する部活なの。良かったら、ちょっと見学して行ってみない?」
俺は、コクコクと首振り人形のようにうなずいた。
ズルイなあ。こんな美人に尋ねられて、NOと言えるわけないじゃないか。
顔の筋肉が緩みっぱなしの俺を、たけはる先輩が、ニヤニヤしながら肘でつつく。
「もう、鼻の下伸ばしちゃってー」
「の、伸ばしてないです!」
「ふふふっ。でも、和泉さんはね……」
「たけはる。余計なこと言わなくていいの」
和泉さんが、たけはる先輩を制する。
俺には、彼女の次の言葉が予想できた。どうせ、イケメンの彼氏がいる、とかだろう。いいよ、そんなの、わかりきってるよ。
不貞腐れる俺をおかしそうに見て、たけはる先輩が口を開く。
「あ、そういえば、あたしは、尺八部2年の武田晴佳です。たけはるって呼ばれてます。よろしく、淳平!」
たけはる先輩のキラキラした笑顔は、あまり俺の心を癒してはくれなかった。
俺は、ふーっとため息をついて、紹介されていない人物がもう一人いることを思い出した。
ずっと聞こえている興奮した低い声がやはり気になってしまう。
チラチラと視線をそちらに移してしまう俺に気付いたのか、たけはる先輩が先ほど俺を引っ張ってきた腕力で、青年から尺八を奪い取る。
「ああっ、何をするんだ!」
「須藤さん、現実に戻ってきてください」
彼女が俺に尺八を返す。
俺は何も考えずに受け取った。
くすくすと和泉さんが笑う。
「この人は、大学院修士1年の須藤悠助さん。ご覧の通り、尺八を愛しすぎているけど、本当はいい人よ」
「おい、 東郷。なんていう紹介の仕方をするんだ」
青年が眼鏡をかけ直す。その焦点は、きちんと俺に合っていた。
「須藤です。よろしくね。えーと、何くんだったかな」
「あ、山岸です」
「山岸くんか。そうか、よろしくね……って、山岸!?」
ガシッと肩を掴まれる。思わず飛び退こうとする。さらに押さえつけられる。
物理的に、開いた口が塞がらない。
「な、何す……」
「ま、まさか、君はあの山岸家の末裔だというのか!?」