08/21の日記

16:56
コラボ小話2
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前回の続きです。



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この僕、城崎ナナシが記憶を飛ばしてから一週間が経とうとしています。
清水さんや志賀さんの甲斐甲斐しい世話のおかげで、随分と怪我も癒えました。
何不自由のない生活に文句などあろうはずもありません。
毎日自由に本が読めて、食事も美味しくて、それはそれは至れり尽くせりの養生生活でした。


傍らには志賀さんが持ってきてくれた本が山積みされています。
今日も一冊手に取って読み耽っていると、軽快なノックの音が聞こえました。


「城崎さん、入るよ」


これまた軽やかで澄んだ声が扉越しに聞こえてきます。


「どうぞ」


本を片手に返答すると、清水さんが盆を片手に現れました。
どうやらもう昼だったようです。


「いつもすみません」


「気にしないで。昼餉は鮭のおかゆだよ。
それから豚汁と漬物。
食後に森さんが検診に来ることになってるよ」


森さんというのは、森鴎外さんのことです。
事故をした日に診てくれたのも彼でした。
それからは僕の主治医となって、包帯を変えてくれたり、薬を手配してくれたりしています。


「身体の調子はどう?」


「もうすっかり歩けるようになりましたので、明日からは自力で食堂に行けると思います」


「それはよかった。
じゃあ、朝食の時は迎えに行くからここで待ってて。
図書館は広いから、最初は迷子になると思うし」


「お気遣いありがとうございます」


最初はどこかの診療所だと思っていたが、どうやらここは図書館内にある医務室だったようです。
それも普通の図書館ではなく――上手く説明できませんが、異様な空気感があります。
清水さん曰く、研究施設も兼ね備えている政府の秘密機関だそうです。
一般人には話せない内容も多く、非常にざっくりとした説明でしたが、清水さんも志賀さんも親切な方でした。


「そうだ。これ」


清水さんが懐から取り出したのは、手作りと思われる栞でした。
栞の真ん中には、千代紙をちぎって作った真っ白な兎がいます。
つぶらな瞳が愛くるしくて、思わずまじまじと見つめました。


「昨日、白樺で集まる機会があってね。
小説の意見交換がてら、手芸にも興じてみたの」


白樺とは、作家の派閥の一つだそうです。
志賀さんもそこに所属しているらしく、清水さんとは長い付き合いらしい。


「栞、あると便利でしょ?」


「ええ。嬉しいです。
それに可愛らしい……」


栞を裏返すと、そこには肉球を模したちぎり絵がありました。
不意に胸を刺すような痛みに襲われて、口を閉ざします。
なんだかとても悲しい。


「どうしたの?」


清水さんに顔を覗きこまれて、はっと我に返りました。


「いえ、なんでも……」


咄嗟にそう答えて、栞を本に挟みます。
僕はなにかを思い出しかけたのでしょうか。
自問自答しながら、動揺を悟られないように微笑みました。


「このお礼はいつか」


「君が元気になってくれることが一番のお礼になるよ」


「それでは滋養のために食事をいただくとします」


「それじゃ、私は用事があるからここで。
お盆はまた後で取りにくるから、そのままにしておいてね」


「分かりました」


清水さんが部屋を去ると、途端に静寂が戻ってきます。
胃の辺りがもやもやとして、食欲が湧きません。
ですが、一日も早く回復することが恩を返すことになるとあらば、食べないわけにもいきません。
詰めこむようにして口に放りこみますが、今日は不思議と味っ気を感じませんでした。




食器はそのままでいいと言われましたが、午後三時を過ぎても清水さんは来ませんでした。
よほど立て込んでいるのでしょう。
というわけで、気分転換がてら、盆を持って食堂を探してみることにしました。


医務室を出て、あちらこちらをふらふらと。
道中、何度も男性とすれ違いました。
彼らもまた物書きを生業としている方々なのでしょうか。


散歩の意味もありましたので、食堂の場所を尋ねることはしませんでした。
それこそ迷いこんだ野良猫のように、足音を忍ばせて密やかに探索を楽しみます。


ふと階段に目を向けると、踊り場に猫の尻尾らしきものがちらりと見えました。
衝動的に追いかけようとすると、まだ本調子ではなかった足がもつれ――。


「……っ、あ、あぁぁっ!」


好奇心は猫の命をなんとやらと言います。
いえ、この場合は不適切でしょうか。
とにもかくにも、僕は前のめりにつんのめって、階段を転げ落ちました。


「な、なんなのニャァァァァッ!?」


頭を強かに打ちつけ、意識が薄れていきます。
猫が喋っているような気がしますが……やはり気のせいでしょうか。





――ああ、思い出した。思い出してしまいましたよちくしょう。
壊れた機械は叩けば直ると言いますが、人間もそのようです。


僕の本名は築山栄七郎といいます。しがない役者でした。
実家はそこそこの名家です。兄弟姉妹多数おりまして、僕はその末っ子です。
ですが、少々立ち位置が特殊でして。


僕の母は築山家に奉公に来ていた女中でした。
彼女は卑しい身分の出身でしたがたいそうな美人だったらしく、築山家当主、つまり僕の父がお手付きをしたそうです。
そうして生まれたのがこの僕。つまり、不義の子というわけです。


父には正妻も存命でしたので、僕の母は壮絶な虐めに遭い、気を病んで屋敷を飛び出したと聞いています。
一緒に僕を連れていってくれればよかったのに、と何度母を恨んだか分かりません。
父は子供達の中で一番僕を愛してくださいましたが、それもまた正妻の嫉妬に拍車をかけました。


口にするのもおぞましい数々の仕打ちを、物心ついた頃から受けてきました。
兄姉からも蔑まれ、馬鹿にされ、殴られ蹴られ……と、散々な人生でした。
家を出ていこうとしましたが、父から泣いて縋られればそれも踏みとどまらざるを得ず。
父に連れられ、二人で演劇鑑賞する時間だけが唯一の楽しみでありました。


学校を卒業後、僕は家を出る口実作りと趣味も兼ねて、演劇の道へ進むことを決めました。
心配性の父は、こじんまりとした屋敷と使用人を一人用意してくださいました。
父が僕を構えば構うほど、嫌がらせは激しくなります。
保身のために、遺産は一銭もいらないと書き残してから、ようやくあの地獄のような家から出ることが叶ったのでした。


演劇の道は奥が深く、辛苦の多い日々なれども充実感がありました。
また、移り住んだ屋敷で出会いが一つありました。
屋敷の庭に迷いこんでいた小さな野良猫です。


その日は土砂降りで、野良猫は酷く震えてか細く鳴いていました。
放っておくことはできず、家に入れてすぐに部屋を暖めました。
それから身体を綺麗に拭いて、その夜は隣で一緒に眠りました。


野良猫はこの家が気に入ったようで、自然と棲み着くようになりました。
いつの間にやら飼い猫のように甘えてくるようになり、僕はその子に小雨と名付けました。
雨の中で出会った子だから、小雨。我ながら安直です。


晴れの日も雨の日も、雪の日も、小雨は出迎えてくれました。
人間不信に陥っていた僕は、すっかり小雨の虜でした。


――ですから、小雨が病で亡くなった時は、もうなにもいらないと思いました。
積み上げてきた役者としての名誉も、主役が決まっている舞台も、観客の拍手喝采も。
全てを捨てて、あの世で小雨と再会しようと思ったのでした。
それがちょうど二週間前。
飛び降り自殺を決行しようとした一週間前の話です。
無残な姿で死ねば、僕を虐めてきた家族にも多少の罪悪感を抱かせることができるのでは、とささやかな復讐のつもりで水の中に飛び込もうとしたのでした。




目を開けると、またもや医務室の天井が眼前に飛び込んできます。
誰かが運んでくれたのでしょう。


「……はぁ」


窓の外はすっかり暗くなっています。
細く静かな雨が降り注いでいました。
僕の代わりに泣いているのでしょうか。
それとも小雨が見守っていてくれているのでしょうか。


自転車で激突されて、結果的に命を救われてしまいました。
まだ死ぬなと小雨に言われているようで、僕はあらゆる感情を飲みこむように目を閉じました。




翌日の朝。
森さんの検診を受けた後、清水さんと志賀さんがやってきました。
そして、志賀さんにこんこんとお説教されました。


「お前なぁ、男がドジっ子ってのは可愛くもなんともねぇからな」


「ええ、ええ、そうでしょうとも。
反省しておりますゆえ、そろそろどうぞご勘弁を」


これまでの人生で、こんな風に心配されたことはない。
だから妙な話、ちょっとばかし嬉しかった。


「志賀だってドジ踏んで事故したばかりだし、あんまり強く言えないけどね」


「ぐっ……それとこれとは別問題だ」


「腹が減ってはまた倒れてしまいそうです。
ちょうど居合わせて僕を運んでくださったという、武者さんとやらにもお礼を言いたいですし」


「武者なら食堂で待ってるよ。
みんなでご飯を食べようって約束したんだ」


「ならば、早く行かねば失礼というものです。
志賀さん、参りましょう」


「……分かったよ」


記憶が戻ったことを告げる必要はないでしょう。
僕は戻る気はありませんから。
演劇に未練はあれど、このような心持ちで舞台に臨むことはできそうにありません。


それほどに小雨の存在は大きかった。
まだ後追いしたい気持ちもありますが、清水さんや志賀さんに迷惑をかけるのは本意ではありません。
ですから、まだ……。もう少しだけ、生きていようと思います。


「立てる?」


「ありがとうございます」


清水さんが当たり前のように手を差し伸べてくれます。
その手を取って立ち上がると、志賀さんが部屋の戸を勢いよく開けました。


「行くぞ」


「……はい」


これも合縁奇縁というものでしょうか。
彼らの傍は日溜まりのように暖かかった。


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