短編・その他
□A
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1年経って、名無しさんが引っ越すことになった。
先生がみんなの前でそれを言ったとき、俺は頭の中が真っ白になった。
名無しさんが引っ越してしまうという事実が、ひどく悲しく、辛いものに思えた。
その日の放課後、俺は自転車に乗っていた。
いくらペダルを踏んでも、いつものように気分が高揚しない。俺はただがむしゃらに、何も考えないようにペダルをこぎ続けた。
いつものコースを走っていると、名無しさんがいた。1年前、スポーツドリンクを渡した、あの場所に。
座り込んでいた。膝頭に頭を擦り付けるようにして、小さくなっていた。
自転車を降りて、押しながら名無しさんに近づいた。音に気付いたのか、名無しさんが顔を上げた。泣いては、いなかった。
「名無しさん・・・」
俺が小さくそう言うと、名無しさんの瞳に、みるみる涙が溜まっていった。俺は焦って、何も声をかけることができなかった。
名無しさんは小さく嗚咽をあげ、袖で涙をぬぐっていた。俺は、名無しさんが落ち着くまで、その場にただ立っていた。何を言えばいいのかわからず、何を言っても今の名無しさんには違うような気がした。
俺はただ、そこにいることしかできなかった。
しばらくして、名無しさんが落ち着いてきた。
何か話さなければ。そう思い、自然と体をこわばって手に力が入った。そのとき、ズボンのポケットに手が当たり、固い感触がした。
俺は咄嗟にそれを取り、名無しさんに差し出していた。
「名無しさんに、これを持っていてほしい」
名無しさんは、渋っていた。あの日、スポーツドリンクを受け取るのを躊躇っていたときのように。
俺は、なるべく名無しさんが安心できるように笑みを浮かべた。
「次会ったときにでも、返してくれ」
会いたいと思った。
ただ、また会いたいと。
名無しさんの手に無理やりそのヘビのキーホルダーを握らせ、俺はすぐに自転車にまたがった。
「またね」
そう言って、ペダルを踏む。
「またね!!」
しばらく行ったところで、名無しさんの声が聞こえた。いつもよりも、大きい声。
名無しさんも俺と同じように、また会いたいと、そう思ってくれているのかもしれない。
そう思ったら、自然と笑みがこぼれた。俺は一度だけ振り返り、キーホルダーを握りしめている名無しさんの姿を目に焼き付け、また思い切りペダルを踏んだ。
それからは、さっきまでの気分が嘘であったかのように、気分が高揚していた。
“また”ね。
“また”会える。
きっと。絶対。
確証もないのに、俺はそう信じた。信じられた。キーホルダーが、俺たちを繋いでくれると。
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