長編・金木犀
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「おはよう」
翌日、自分の席についた俺にそう声をかけてきたのは、名無しさんさんだった。
「お、はよ・・・」
まさか向こうから話しかけてくるとは思わず、俺はワンテンポ遅れて返事をした。
彼女は柔らかくほほ笑むと、またあの香りを残して自分の席へと戻って行った。
休み時間になり、誰かと話すことも何かすることも特にない俺は、次の授業の用意をしてから、頬杖をついてぼーっと外を眺めていた。
すると、いつもは自然とまわりの騒音など聞こえなくなるはずなのに、なぜだか、今日だけは聞こえた。
彼女だ。名無しさんさんの声だ。
昨日、初めて聞いた、あの心地の良い声が、俺の耳に届いた。
「名無しさんってさ、いつも良い匂いするよね」
「何か香水でも付けてるの?」
どうやら彼女は友人と会話をしているようだった。
内容は、あの香りの正体。
「香水じゃないよ。これはね」
ガタン、と音を立てて、俺は立ち上がった。何事かと、クラスの数人が俺を見る。が、すぐになんでもないとわかり、いつもの会話に戻る。
無意識に起こした行動だった。
聞きたく、なかったんだ。
俺は、彼女のあのいい香りがなんなのか。
それは、知りたい。けど、そうじゃないんだ。
俺は、自分で直接、彼女から聞きたいんだ。
こんな、他人と話しているのを盗み聞きするような形ではなく、俺はただ、彼女の口から、あの心地の良い声で、直接聞きたいんだ。
そう自覚した瞬間、なぜだか俺は無償に恥ずかしくなって、教室から出た。
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