◆ 斎藤×千鶴(転生パロ) +SSHL
□北へ走る 3
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夜になるに従って体はすっかり軽くなった。
夏の月はぼんやりとしていて光も鈍重だと思うが、今夜は何故かひどく明るく感じる。
布団に入ってから何度も寝返りをうち、寝るのを諦めて持参のノートパソコンに旅の記録を纏めてみたり、
窓から空を眺めてぼんやりしてみたりしたが、結局眠れなかった。
時計が午前四時を回ったのを見て、一は部屋を抜け出した。
宿の備付らしき下駄を借り、施錠された扉のカギをこっそり開ける。
一は目の前の駐車場に出ると、自分の車へ向かった。
バックドアを開け木刀を引っ張り出す。 出来るだけ音を殺しながらバックドアを閉じる。
そして駐車場の中央に立つと、下駄を脱いだ
。
空を見ると、真っ黒とは言えない闇で、もうすぐ夜明けだと感じる。
一は構えて一呼吸置くと、素振りを始めた。
鍛練と言える程の剣道は高校でやめた。今は趣味という程度だ。
木刀が重く感じる。 鈍っているのだな、と思った。
最近はペンばかり持っているな。
司法試験を目指す以上勉強ばかりになるのは仕方ないが。
警察官僚へのレールは敷かれているが、それが検察でも許されるのではないかと思って法学部を選んだ。
父方の親戚連中の思惑に乗るだけが道ではないはずだ。
一の脳裏に色々な顔が浮かぶ。
雑念を抱えながら一はひたすら素振りを繰り返した。
もうしばらくすれば、この雑念も消えていくのを知っている。
何度も何度も木刀を振り下ろす。
ただ勝つための無意識の動作に変わっていく…。
「随分と強そうだねぇ」
声をかけられ、一は我に返った。振り向くと男がこちらへ歩いてくる。
一の部屋と、宿の扉を挟んでちょうど逆のあたりに離れがある。
そこから男は来たのだと、一は感じた。
もうあたりは明るく、朝の太陽がくっきりと輝いていた。
光が、じり、と肌を刺した。針に刺されるような物理的な痛みを感じた。
朝日は好きだったのだが、今朝の太陽は不愉快だった。
声をかけてきたその男は背が高かった。 髪は後ろになでつけてある。
目がやや細く、一のあまり好きではない雰囲気をもった男だった。
三十代半ばくらいに見えた。
整った顔に浮かんだ笑みは自信家で酷薄な印象を、そして人を見下ろす事に慣れた余裕を醸し出していた。
「綺麗な素振りだね」
男は遠慮なく近づいてくると、ひんやりした指で一の右腕を掴んだ。
「細いけれど筋肉質。良い体だね」
舐めるような、値踏みするような視線に一は腕を引いて冷えた指を振りほどく。
「なんだ、あんたは」
「私? この宿の客だよ」
そう言うと男は更に一に近づいてきた。 長くすんなりした指が、今度は一の顎を捕らえようとする。
一は一歩下がってそれを避けた。
「…顔も綺麗だね」
自分を覗き込んでくる男の口元に浮かんだ笑みを、ねとりとした蛇の笑顔だと、一は思った
。
「私もね、昔、剣道を嗜んでいたんだよ。 若いころならいい勝負が出来たかもしれない」
言い表しにくい嫌悪感を男に感じ、木刀を持つ左手に力が入った。
「左利き…なのかな?」
わずかな動きに気付かれ一は警戒を強めた。 本人が言う通り、そこそこ腕が立つのだろうと思う。
「…学生?」
男はまた一歩寄ってくる。 一は答えず一歩下がった。
「…私はあなたを怖がらせているかな?」
怖くは…ない。気持ち悪いだけだ。
一はそう思ったが口にはしない。その代わり、一歩下がる。
その様子に、伊東は今度は顔だけを一に寄せた。
「綺麗な顔に浮かぶその表情はすごく良いですね。 楽しい人だ」
伊東はクスクス笑った。
容姿に関する褒め言葉には慣れている。 自分ではそうは思わないが。
しかし、楽しい人、と言われ、一の首筋がチリッと張り、警戒を強めた。
「あなたとはもう少し仲良くしたいと思いますが、あなたは?」
…御免こうむる。
どうやって拒絶しようかと頭を巡らせ始めた時だった。