◆ 雪月華【1】斎藤×千鶴(本編沿)

□池田屋直後治療備忘録
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【池田屋直後治療備忘録





斎藤の後ろから池田屋に飛び込んだ千鶴は、血の匂いにあてられた。
夏という事もあっただろう。
熱気に混じった血の匂いは吐き気がしそうだった。

沖田が2階だ、という近藤の声が耳に飛び込んできた。
千鶴は反射的に暗い階段を駆け上がった。

駆け上がった先、座敷に飛び込む。
うつ伏せで倒れている沖田を見つけ、千鶴は、ざぁ、という血の気が引く音を耳の中で聞いた。
「沖田さん!」
駆け寄り、上向けさせると胃のあたりに赤黒いアザがある。


……これ、蹴られた跡……?



沖田の全身に目を巡らせると、怪我は無いらしい事がわかる。

千鶴は、はだけたところから着物に手を入れ肋骨を探る。
と、下の方の骨の感触が微妙な気がした。
折れているかも、と思う。
千鶴は沖田の握っている刀を取り鞘に納めると、
沖田の刀と帯を使って上半身を固定する。
刀をこんな風に使って良いものか迷うが、今は沖田が動きまわって内腑を傷つけるなどの酷い事になるほうが怖い。

千鶴は周囲が静かになったのに気づき、沖田を残して池田屋の階段を駆け降りた。

「近藤さん!2階の沖田さんを!」
近藤の返事を待たず言い捨てて、千鶴は池田屋の表へ走った。
さっきから、平助と、他の隊士らしき名を呼ぶ声が聞こえるのだ。
怪我をしているに違いない。


階段を降りた時に、千鶴は斎藤とすれ違ったのだが、千鶴は気づかなかった。
斎藤は千鶴が駆け降りてきたのを見て、沖田は無事だと感じた。
しかしあの見栄っ張りが降りて来ないという事は。

斎藤は戸板で2階の沖田を運ぶよう、部下に指示を出した。



千鶴は外で、戸板に乗せられた平助を見つけて駆け寄った。
側に居る原田に体当たりするようにしてどかし、平助の額を覗き込む。
「平助君!聞こえる?!」
千鶴の必死な声に、原田と永倉は千鶴を見つめた。
「へへ…っ」
平助は痛そうに顔をしかめながら、千鶴を真っ直ぐに見た。
千鶴はあからさまにほっとした。
「平助君、動かないでね!」
懐から手拭いを出し、平助の額を左右から寄せるようにして、その形を固定するように上からやや強めに抑えた。
「千鶴…」
伸ばされた手を千鶴は強く握った。
「凄く凄く頑張ったんだね、平助君!
でも帰ったら、こんな怪我したの、怒るからね!」
「へへっ…」
困ったように平助が笑う。
平助の反応がはっきりしていたため、千鶴の顔は自然な笑顔を浮かべる事が出来た。
「怪我してる人が他にも居るから、行くね」
「おう。頼むな」
痛そうに顔をしかめながら、平助は千鶴の手を離した。

千鶴の態度から、平助は無事らしいと感じた原田は、やっと声を出すことが出来た。
「お、おい千鶴、そんなに押さえたら痛いんじゃ…」
「原田さん! ここを、血が止まるまで抑えて下さい!
いいえ、もう少し強く!」
原田があわてて、千鶴の言われた通りにする。
力加減が気に入らない千鶴は、原田の手の上から自分の手を当て、力加減を伝えた。
原田は、これがあの、いつも小さくなっている千鶴かと驚いた。
身体中から緊張感を湛え、血に怯えもせず的確に動く姿に、子供だと思い込んでいた認識を変えた。


「平助君が眠らないように話しかけていて下さいね!」

千鶴は顔をあげ、次の怪我人を目で探す。
永倉の手の出血を見つけた。

「永倉さん、はい、万歳ー!」
言うや否や千鶴は両手を高く上げ、万歳をしてみせた。
思わず釣られて永倉は両手を上に上げた。「ば、万歳!」

「はい!怪我の部分はそうやって、頭より上に!」
言いながら千鶴は自分の着物の襦袢の袖を引きちぎり、永倉に渡した。
「これで怪我の所を押さえて!血が止まるまで強く!」
「お、おうっ」
千鶴はまた返事を待たず、永倉に背を向け、周りを見る。
永倉は、千鶴に操られたように上げた自分の腕とその怪我、千鶴の袖だった、血まみれの布を見る。


なんだよ。あいつ、俺を手玉に取りやがるたぁ、大した奴じゃねぇか。


永倉はその千鶴の背中に、それまでの自分の冷ややかな態度を詫びた。



永倉を背にした千鶴の目に、背中を真っ赤に染め、戸板に乗せられた隊士が映る。

駆け寄り、今度は左の襦袢を千切って傷に押し当てた。
しかし平助や永倉とは出血量が桁違いだった。
すぐに血でびしょ濡れになる。
「足りない…!」


清潔な布がもっと必要……!
どうしたらいい?!



視界に入る隊士の袖を狙うが、どれもうっすら汚れが見える。
せめてもう少し清潔なものを使いたい。



「……さ………」
千鶴の口が小さく動いている。
「斎藤さん…斎藤さん…」


どうしたらいい…?
落ち着け私。
斎藤さんみたいに、落ち着け、私…。
考えて。どうしたらいい?


千鶴は焦りながら、口の中で、斎藤さん、と繰り返している。
それはここ暫くの、冷静になれ、と自分に言い聞かせる時の千鶴にとってのキーワードだった。
斎藤の纏う空気のように、落ち着いて考えろ、というキーワード。



千鶴の呟きを耳にした隊士の一人が、千鶴は斎藤を呼んでいるのだ思い走って行く。



更に怪我人が池田屋から運び出されてきた。
余計に焦る。
しかし目の前の隊士の血も止まらない。
涙が知らず溢れた。
血が止まらなければ、治療する暇もなく死んでしまう。

「斎藤さん斎藤さん斎藤さん…斎藤さんっ!!」

出血よ止まれ!、と言う代わりに、千鶴は自分を立て直すための、その人の名を唱える。
困った時に、涼やかに自分を助けてくれた彼のように、何とかしてあげたい。
彼の変わらぬ表情のように、これ以上の出血が止まれば良い。
千鶴の中で、斎藤という人物像は良い結果と結び付いていた。
その声は呟きから叫びに変わりつつあった。

「雪村!」

仲間の一人に、千鶴が呼んでいると言われた斎藤は、千鶴の元に走り寄る。

「さい…」

千鶴は斎藤の声に、手を離さぬまま振り返った。
斎藤の目は血まみれの隊士に注がれているが、僅かに目を細めたに過ぎなかった。
直感で、もう助かるまい、と思ったせいだったが、千鶴の目には動揺しない鉄面皮に映る。


そうだ。落ち着け。
やるべき事をしなくちゃ!


斎藤を認識すると同時に千鶴の涙は止まった。



千鶴の、自分を見る目に力がこもる。
斎藤は千鶴に睨み付けられているのかと思った。



千鶴は、斎藤の首にある白色を認識した。
それは昨日洗って、今朝斎藤に渡したばかりのものだ。
千鶴の知る限り、この場でいちばん綺麗な布である。



布!
やっぱり、斎藤さんが居れば大丈夫なんだ!



千鶴のきつい視線が一変し、いっきに安堵が宿ったのを見た斎藤の胸は、大きな音をたて始めた。
この娘は何故自分の顔を見ただけでこのような表情をするのか。

斎藤の五感は世界を見失い、千鶴だけになった。



駆け寄った斎藤に、千鶴は隊士の血で染まった手を伸ばす。
そして斎藤の首に巻かれた白い布を掴んで斎藤から奪った。
それを隊士の傷口に押し付ける。

「止まって…!」

斎藤の襟巻だったものがみるみる白から赤に変わった。
さっきまで泣いて、不安を圧し殺していた千鶴は、今は指先まで意思の力が行き渡っている。

自分のものだった白い襟巻に、千鶴の手についていた血が移り、小さな指の可愛らしい跡を残していく。
その白が、下から赤くなり染まっていく。
赤色は千鶴の指に届きそうになった。
斎藤はその様子を息を飲んで見つめる。
千鶴の手が赤に染まるのを阻止したい気持ちに突き上げられ、斎藤は千鶴に言った。


「代わる。もう一人怪我している。見てやってくれ」
「はい!」
千鶴は、真っ直ぐ斎藤を見て答えた。
千鶴に頼りきった視線を向けられ、斎藤の思考は揺れた。


千鶴とは距離を置いて接してきた筈だった。
なのに、何故、この娘は自分に対してこのような信頼を見せるのか。



「後で繕いますから!」
千鶴は斎藤に手を伸ばすと、手首の奥に見えた白い布をひっつかみ、引き抜いた。
斎藤の肩口で、ビッ、と糸の切れた音がし、襦袢の袖は千鶴に引きちぎられた。
千鶴は更に、動かぬ斎藤の反対側の腕を掴み、袖を引きちぎる。
「お願いします!」
斎藤にその場を譲ると、千鶴は怪我人の方へ走り去った。





「しっかり! 寝ちゃ駄目ですよ!」
仰向けの隊士の背中側の傷口に、斎藤から取り上げた袖を差し込むと、側にいた隊士に押さえさせる。

「……ははうえ…はは…うえ…」

怪我をした隊士は朦朧としているらしく、母を呼んでいる。
千鶴は腹側の傷口に布を押し付けた。

傷から、こぽり、こぽり、と血が溢れる。
千鶴の耳に、隊士のうめきが貼り付いた。

この人のお母様!
助けて、助けてあげて!


指の間から血が流れる。
もっと布が欲しい。
お母様、助けてあげて…


「千鶴!」
鋭い声に千鶴は顔を上げた。
土方だった。

千鶴は反射的に土方に手を伸ばす。
先程、斎藤の袖を引きちぎったように、土方の袖を掴んだ。

「……ははうえ…」

隊士のうわ言が千鶴の耳に届く。

「お母様! 後で繕いますから!」

千鶴は、そう土方に叫ぶと、土方の襦袢の袖を引きちぎって隊士の傷口に当てた。

千鶴は夢中で気づかなかったのだが、この瞬間、この場に壮絶な静寂が訪れた。



千鶴が、



鬼の副長に向かって、



おかあさま



と呼び掛けた。



瞬間、その声を聞いた者は寸分違わず、
ほうき片手にウルサイ説教をかまし夫や子供を叱り飛ばす、鬼のように目を吊り上げた、
土方の顔をした母親像を脳裏に描いていた。



静寂は、十数える間も続いただろうか。



「………………ブッ」



耐えきれなかったのは誰であったのか…。

吹き出し笑いの、小さな小さな音が、
静寂の中、大きな音で響いた。


それは、戸板に乗せられた沖田であった。


「い、痛い、腹がよじれる…!
お母様…土方さんがお母様…!」
青い顔で本気の痛みに顔を歪めた沖田だが、どうしようもなく笑いが止まらない様子である。
痛い痛いと繰り返しながら笑い転げる。
沖田にとって千鶴が、土方をいじるのにとても役に立つ子、に変わった。

そしてその場に居た者は一人残らず、斎藤までも、土方にそっと背を向けると肩を揺らして笑いをこらえた。


「……早く連れていけ」
土方の、地の底から這い出たような低い声に、沖田を運んでいた隊士は殴られたように飛び上がると、急ぎ足でその場を去った。


「土方さん! すみません、もう片方の袖を!」

千鶴だけが必死で傷口を押さえていた。
土方は無言で自らの袖を取り、千鶴に手渡した。



千鶴は更に原田から腹に巻いていた晒を取り上げ、怪我人に当てていた圧迫用の布を上から抑えるために巻かせて使った。


後は、出来る事は無い。
お医者さんに任せるしかない。


一段落ついた千鶴は、その場に座り込んだ。
斎藤から命じられた怪我人の手当ては終わらせたと思う。
自分は、まだ暫く斬り殺されずに済むだろうか。役に立てたのだろうか…。
空はうすぼんやり白くなってきていた。
その空をやや焦点の合わぬ目で見つめながら、千鶴は、母上、と言い続けた隊士の無事を祈っていた。


「雪村」
肩を叩かれ、ゆっくりと声の主を見上げた。
「……斎藤さん………」
「行くぞ」
千鶴は、初めて斎藤の穏やかな目を見た、と思った。
この人がこんな目をしているのなら、この出来事は終わったのだろうと判った。



「屯所に戻る!」
土方の声が響き渡る。



千鶴は斎藤に差し出された手を取り、立ち上がろうとした。
「あれ?」
カクンと途中で力が抜け、地面に膝が落ちる。

それを見た斎藤は千鶴を横抱きに抱えあげ歩き出した。
「ささささ斎藤さん?!」
目の前に男の顔があり、なおかつ抱き上げられていると気づいた千鶴は、あわててその腕から逃げようとした。
しかし身動きも出来ないほどがっちりと、自分の体が斎藤自身に押し付けられているかと思うほど押さえ込まれていた。

「暴れると落とすぞ」
斎藤の顔が目の前で、悪戯じみたとても楽しそうな微笑の形に変わっていく。
想像もしなかった斎藤の意外な表情に、千鶴は今までの人生で最高に度肝を抜かれた。
胸が跳ねてとても斎藤を正視出来ないと思うのだが、それ以上に、驚き過ぎて千鶴は微動だに出来なかった。

斎藤は、千鶴が動かなくなり、大人しく腕の中に収まっている事に満足して再び歩き出す。
腕の中に良いものを抱えているように気分が良かった。


………………周囲には、面倒な大荷物を運ぶ仏頂面の斎藤と、
恐怖に固まり切った、世にも気の毒な小姓にしか見えなかったとしても。

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