◆ 雪月華【1】斎藤×千鶴(本編沿)

□千鶴のお馬
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【雪月華】

恐怖の形を凪ぎ払ったのは凍てついた光だった。
吹雪のように恐怖を覆い隠した。
その直後の赤色の嫌悪に、暫く忘
れてしまっていたけれど。




*****


千鶴が新選組に囚われて2か月ほど経った。

小姓の肩書きがあっても軟禁されている事には変わりが無い。
だいぶこの生活に慣れ、落ち着いてはきたものの、千鶴なりに、思うところは色々あった。


千鶴は今日もボンヤリしている。

時間潰しになりそうな本も家事も、やることは何も無い。
針と糸でも貸して貰おうかと思ったが、仕立てる為の反物は無いので意味が無い。

余りにもやる事が無い千鶴は、余りにも動けない状況に、手足を解したり伸びをしたりしている。

その物音をいぶかしがりながらも斎藤一は、千鶴の部屋の外で、昼下がりとはいえまだひんやりする空気の中で千鶴の監視役を務めていた。

一通り動いた千鶴は、すぐにやる事が尽きてボンヤリ座り込んだが、すぐに立ち上がると、記憶を頼りに、何も持たぬまま小太刀の型を繰返した。

ザッ、ササッ…と畳を擦る繰り返される音に、部屋の外の斎藤はふと気づいた。
足裁きの耳慣れた調子が繰り返されている。
斎藤は、部屋の中の千鶴が何を始めたかすぐに気付いた。

そしてその足裁きの音と衣擦れの音をたてる者の心意気を心地よく思いつつ、
暫く無表情のままその音に耳を傾けていた。

………………彼の名誉の為に言っておくが、出歯亀根性で耳をそばだてていた訳ではない。
過去の任務の都合上、見聞きしたものに注意を払う癖がついているだけである。


「あっ」
その部屋から小さな千鶴の声が漏れ聞こえると、畳を擦る音は止まった。
「どうした?」
斎藤が部屋の中の千鶴に静かな声を掛ける。
「なんでもありません!」
返ってきた声は想像以上に鋭く、斎藤の感覚を逆撫でした。


「すみません、着替えますので少し開けないで下さい!」
続いた千鶴の言葉に、比較的女に馴染みの少ない斎藤は小さく息を飲んだ。
「わかった」

静かに応えたものの、すぐ傍で衣擦れの音がすれば、
相手がいかに少年と見紛(みまご)う幼さを持つとしても居心地が悪い。
斎藤は少しばかり動揺して、部屋からずれた場所に移動した。

………………再度言っておくが、彼は、見聞きしたものに注意を払う癖がついているだけである。
衣擦れの音で、どんな作業が為されているかをわざわざ想像したいとは思っていない。
ただ、癖でそうしてさしまうだけである。



部屋の中では、千鶴が青くなっていた。
(お馬が来ちゃった…!)
ここしばらく色々あったせいか止まっていたのだが、再開したらしい。

失念していて大した準備が出来ていない。
予想していたとしても、千鶴には準備出来なかっただろうが。


慌てて袴を脱ぎ、手持ちの懐紙を使って手当てしたものの、肌着が少し汚れた上に、終わるまで乗り切る程の手持ちは無い。

男所帯で、自分は女であることを隠さねばならない。
しかし、現状では一人ではどうにもならない。
誰かの力を借りて、手当ての為の材料を入手せねばならない。



千鶴はうーん、と考え込んだ。
そして深く、長い長いため息をついた。



不便があったら、出来る範囲で対処すると言ってくれたのは斎藤さんだけど…。

千鶴の脳裏に斎藤の姿がよぎった。

恐怖を斬り去った冴えた姿。
話を聞いてくれた静かな瞳。
温かい雰囲気ではないものの、千鶴に余計な情報を与える事を避けさせてくれたり、千鶴の戸惑いに先回りして説明をしてくれたりと気遣いをしてくれる。
静謐なその佇まい…。



あの人に、「お馬の処置をするものが欲しいです」と言う…?
…なんか…言えない…。
あの整った氷の顔にお馬発言…。
言えない!



必死に考えている千鶴であるが、部屋の外で斎藤が男の事情を、表面上涼しい顔で抑えている事は知らない。



千鶴は、膝だけでなく手まで床について悩んだ末、ある人に考えが至った。


…そうだ。誰に何を頼んでも結局あの土方さんに報告が行くと思う!
だったら、こんな事を知られるのは一人で充分っ!

それに年令的にも、こういう事は知っているだろうし…?
土方さんに言うしかない…かな。
でも、どうやってお願いしよう…?



千鶴は、父親だけしか居ない生活が長かった。
しかも医者である。
通常母親にする相談も父親にしてきた。
故に、彫像のように整った顔の土方に男臭さを感じず、
あっさりお母さん代理ポジションに据えてこの相談は土方に、とし
たのは、千鶴としては、ごく当然の成り行きであった。

…………土方が、自分がお母さん代理だと知ったら憤死しそうだが。




考えた末、千鶴は父が残したものだと渡された荷物から矢立(携帯用筆と墨)を引っ張り出し、懐紙に事情と欲しいものを書き付けた。
そして折り畳み、すぐ外に居る筈の斎藤に、土方に渡して欲しいと頼もうと思った。

その時ふと、彼にこの内容を知られるのがなんとなく恥ずかしく思え、千鶴は懐紙を縦長に畳み直すと軽く結んだ。


これなら、書いた内容が、ただ折るよりは文字が透けても判りにくいよね。


千鶴は一人で納得し、斎藤に声をかけた。「すみません、斎藤さん」
障子を開けて声を出したが、すぐ側に居ると思った姿が無い。
千鶴は首を左右に振って斎藤を目で探す。
「何用か?」
黒い静かな姿を見つけ、千鶴は思わず安心を覚えて、知らず知らずに小さな微笑を浮かべていた。

千鶴は斎藤にきちんと向き直ると頭を下げた。
「すみません。これを後で土方さんにお渡し願えないでしょうか」
斎藤は小さな結び文に目を落とすと、黙ってそれを受け取った。

「…何かあったのか?」
斎藤に問われ、千鶴は訳がわからず小首を傾げて斎藤の目を見返した。
斎藤の視線に、自分が袴を着ていない事に思い当たる。
しかし万が一袴を汚してしまっては、今は着替えが無い。
千鶴は再度斎藤に頭を下げた。
「あっ、すみません! …あの、部屋からは出ませんので、少しだけこの格好を許しては貰えない…でしょうか…」
無言をもって、斎藤は許可とした。

「危急か?」
千鶴の渡した文を見せて斎藤が問う。
「えっと…」
どう答えたものか。
用意してもらう時間を考えたら、長々とは待てない。
しかし危急と言うほどでも無い。
「…一刻…位なら待てる程度の急ぎ…です」

千鶴の返事に、斎藤は顔を見直した。
「…具体的で分かりやすい返事だな。
わかった。対処しよう」
斎藤の目元は微かにほころんだのだが、千鶴は気づかない。
斎藤は今屯所に居るはずの原田の顔を思い出すと、その名を呼んだ。

少しの間を置き、原田がやって来た。
千鶴は一歩部屋へと戻る。
背が高い美丈夫なこの男の傍は圧迫感があり、まだ少し苦手だった。
「なんだー?」
「すまない、すぐ戻る故、監視の交代を頼む」
「おっ。了解、了解」
原田は気安く引き受けると、千鶴へも笑顔のままで視線を落とした。
見下ろされ、知らず体が硬くなる。
その千鶴と原田を残し、斎藤は土方の部屋を訪れた。




「すみません土方さん」
斎藤が千鶴からの文を差し出す。
「なんだぁ? 結び文?お前を恋文の使いっ走りにする肚の座った奴たぁ誰だ?」
笑いながら土方はかさかさとその文を開いていく。
「雪村です」
斎藤の返事に、土方は一度顔を上げて怪訝な顔で斎藤を見た後、内容に目を通した。

その土方の顔が変な歪みかたをしていく。
珍しい土方の表情に、斎藤は何が書いてあるのか、強く気になった。
「…何か不都合な事でも?」
「…………………。
……………………。
だぁぁぁっーーっ!」

いきなり奇妙な声を出して髪をぐしゃぐしゃにするようにガリガリと頭を掻く土方の姿に、斎藤は心だけで狼狽えた。


一体何が書いてあったのか。


「副長?」
土方は斎藤を無視して、手元にあったまだ真っ白な紙をまとめ、
部屋の隅の行李から手拭いをあるだけ引き出した。
真新しい晒布も手に取ったが、少し考えて止めたらしくそれは戻した。
「怪我した時に無いと不味いしな…」
などとぶつぶつ言っている。
斎藤は呆然とその姿を見守っていた。

「…斎藤、お前のその白いの、綿か?絹か?」
土方は斎藤のしている襟巻を指差した。
「は? …さ…さぁ…?」
「まぁいい。よこせ」
「……は?」
「新しいのを買って返す。
思い入れのあるもんでなけりゃ、今はそれをよこせ」
「は…い。いえ…思い入れはありませんが…これ…ですか?」
程々に使ってくたびれた、ただの布である。
こんな使いかけのものをどうしたいのかと首を捻りながらも大人しく手渡した。
副長によこせと言われて手を出されれば否応も無い。

土方は仏頂面で、悪いな、と言って受けとると、それを先程の紙、手拭いと一まとめにして斎藤に突き出した。
「あいつの所に持っていけ。
あと、後で少し買い物に出る」
「……承知しました」

一体、千鶴からの手紙には何が書いてあったのか…。
斎藤は、手の中で小さく山になった紙と布を見下ろした。

斎藤は受け取ったものの、訳がわからず手元と土方の顔へと数度視線を往復させた。
「後で行くと雪村に言っておいてくれ。
今はそれをあいつに持って行ってくれ」
土方は、苛立ちとも微妙に違いながらも不機嫌に、有無を言わさぬ声で斎藤に命じた。
斎藤は一礼するとさらりと立ち上がり、素早く命令を実行した。


斎藤が戻ると、原田は目ざとく気付いた。
二人はさっきからずっと部屋の入口付近で立ち話をしていたらしい。
「お。早かったな斎藤。じゃあな、千鶴」
「すみませんでした」
千鶴が頭を下げる。
「こういう時は、すみませんじゃなくてありがとうの方が良いぜ」
などと言い、頭に軽く手を乗せた。
千鶴が笑顔を返したのを見て、
斎藤は、こういうさりげない接触の上手さが少し羨ましくも見えた。

原田は斎藤に軽く手をあげ挨拶の代わりにすると、さっさと去っていった。

「雪村。副長からだ。後で寄ると言っていた」
斎藤が声をかけると、千鶴の視線が斎藤に戻った。
目が合うと、ほんのり千鶴の頬に朱が浮かんだ。
「すみません」
渡されたものを受けとると、千鶴はそそくさと部屋へと戻っていった。
斎藤は再び、部屋から僅かに離れた場所に陣取り、監視任務を続行した。



斎藤から渡されたものを見ている部屋の中の千鶴は、渡されたものにやや困りながらも、土方という人物像を上方修正した。
「こんな良い紙…きっとお仕事用だよね。急ぎだからってくれたんだと思うけど…。これをお馬に使えって…贅沢過ぎる話だよね…。
でもごめんなさい、今回は使っちゃうかも…。
この手拭いも多分土方さんのだよね…。
ごめんなさい!宿代の予定の手持ちがまだあるから、金子でお返しさせて頂きます!」

とりあえず手持ちのものをかき集めた風情ありありのものに、苦笑と感謝が漏れた。
そっと、紙と布の山に手を合わせる。

「あれ?」
ふわりと、傍に居ないはずの斎藤の気配を感じて千鶴は手を止めた。
その原因に気づいて、千鶴はそれを手にした。


「土方さん…斎藤さんの襟巻も取り上げちゃったのか…」

苦笑するしかない。
すぐに返したい所だか、厚手の綿に表面が起毛されていて、暖かそうである。
さっきから腰と腹に痛みを感じはじめている。
寒さで冷えて、一層痛み
が強くなっているのだとわかる。
父からも、痛みを訴えた時に温めろと言われていた。

「…ごめんなさい!」

千鶴は斎藤の襟巻をぐるぐると腰と腹に巻き、暖を取らせて貰う事にした。

酷くならないうちに、と布団を引っ張り出して横になる。
鈍い痛みは少しずつ強くなるようだった。


土方の手配のお陰で当座の処置には困らなくなったものの、次の悩みが千鶴を襲っている。

「お腹痛い…腰痛い…」

耐えきれず、ぶつぶつと布団の中で呟く。布団の中ならば、外の斎藤には聞こえないと思ったのだ。
痛みに耐えようと、布団の中を転がったり文句を言ったりとのたうちまわる。
バタバタと動く気配は、斎藤にも伝わっていた。

「雪村?開けるぞ?」
異様な気配に斎藤は部屋の中の千鶴に声をかけた。
「あい」
返事を待って開けた障子の向こうに居たのは。

それまでの気丈で賢そうな様子がまるでなく、髪が乱れ、別人のようにグッタリした顔だった。
布団の中で丸まっているらしい。
そこから頭だけ出して斎藤を涙目で見上げている。

「…?!ど、どうした?」
数刻前とまるで違う様子に斎藤は焦った。
「すみません、今は起きられません…」
「医者を…」
「いりません」
これだけはキッパリと返事を寄越す。
「しかし…」
「時間が経てば治ります」
「…持病もち、か…?」
「違います」
千鶴は、土方に直接頼んで良かった…と、なんとなく思った。
「…何か出来る事があるか?」
「背中…叩いて貰えますか…」
斎藤は部屋に入ると、亀の甲羅のようになっている背中を、赤子をあやすように優しく叩いた。


「もっと下を、もっと強くお願いします…」
申し訳ないと思いつつも、痛みには逆らえない。
痛みの余りにふだんはとても出来ないお願いが簡単に口から溢れていく。
「もっと下を強く…」
「もう少し下を強く」

斎藤は困っていた。
亀になった千鶴の要求通りに背中…というより尻の上、という辺りを、
手刀の勢いで叩いてやっているのだが…。
苛めているような気になった。
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