九生

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普段から霧に覆われていることがデフォルトなこの街だが、今日はその濃度がいつもより高いようだった。どの道も生存率が20%を下回り、自分から半径3mより先は白い壁に隠されてしまっている。
そんな日に何も起こらないはずがない=B不運な事故や事件、濃霧に乗じた怪しい取引など……まあ、この街であればそんなものは日常茶飯事だが、今日は特に発生件数は多いだろう。
それに合わせてか、本日のライブラ事務所にトップ2の姿は無く。今その部屋には長ソファに堂々と寝こけるザップとそれに対面している個別ソファのひとつには黒猫が丸くなって寝ていた。
「………、…、」
しかしその間、黒猫の耳はぴく、ぴくりと忙しなく動いていた。
ーーーああ、雨だ。
この広い街の音≠拾っていた黒猫の耳に新たな音が入り込み、猫はうっすらと目を開ける。隣で眠るザップは雨音に気が付いていないようで相変わらず鼾をかいていて、しかしそれで良いと思いつつ金色を青年から窓へとつい、と動かし見ると…そこには全身、雨に濡れた仲間が立ち尽くしていた。
「…チェイン…」
ソファから飛び降りその足下まで駆け寄るが、彼女からは何の反応もない。動きがあるのは彼女の髪や服から垂れ落ちる雨水のみで、顔は俯いたまま。明らかにいつもと様子の違う人狼に、黒猫は少しだけ戸惑ったものの…心当たりがあった。
さっきまで黒猫の耳に聴こえていた音の一つに、彼女が気落ちしてしまうようなものがあったから。
「…リッカは、知ってたの……?」
人狼の小さな声が、黒猫に降り注ぐ。それはいつもよりひどく弱々しく、普段どちらかというと物言いの強い彼女から発せられる声色とは明らかに違っていた。
黒猫が見上げると、そこには自分を見下ろすチェインの顔がある。猫には人間の感情のすべてを察知することは出来ないが……その顔は、猫の知っている言葉で言えばひどく悲しそう≠ナ。
「……そのままだと、風邪ひいちゃうよ」
人狼の問いかけをひとまず*ウ視した黒猫は、彼女の冷えた肩に飛び乗りその頬に頭を擦り付ける。全身雨に濡れているところに擦り寄れば、猫が濡れてしまうのは当然のことで。
「わたしも濡れちゃったから、一緒にお風呂行こう」
「でも……」
「だいじょうぶ。今ここにはミスターしかいないから」
ここまで食い下がる黒猫に珍しさを感じつつ、チェインはそこで漸く、顔を上げて事務所内をゆるりと見渡した。事務所内はいつもより人が居らず、成程、先程猫が言ったようにソファでイビキをかきながら惰眠を貪る猿しかいないようだった。
「……わかった」
そのイビキに興を削がれたのか、チェインは脱力するように長く息を吐き出したあと、のろのろと移動を開始する。本当はいつものように猿の上を無遠慮に踏み登っていこうかとも考えたが、今この男に起きられると厄介なことこの上ないと思い直し、硬い床の上を踏み締めたのだった。

「別に、いいんだ」
部屋の中に湯気が立ち込める中、浴槽に浸かるチェインはそう言う。
「あの人がそういう人≠セってことは何となくわかってたし、っていうかライブラ自体が裏社会だし、ミスタークラウスみたいにただ真っ直ぐなだけじゃ、到底やっていけない。……わかってるんだ」
広い浴槽の中で膝を抱え、身体を縮こませながら、早口で……まるで自分に言い聞かせるように、人狼の口は止まらない。そんな彼女の向かいで、同じように膝を抱える黒猫ーーー今はヒトの姿に変化した六華はただ黙って話を聞いていた。
「……うそ。本当はあの人のこと、私は何も知らないのかも」
いつも私達が見ているあの人は実はニセモノで、本来のあの人の性質が現れているのはあちら側≠ノいる時なのかもしれない。そう思うと……こわくてしょうがない。
そこで言葉を切った人狼は、様子を窺うようにそろりと前方にいる女へと視線を向ける。
「……訳が分からない。とか言わないんだね」
「……そうね。それは、チェインが最初に聞いてきた質問の答えがyes≠セからかもしれない」
わたしの聴覚では、本人が隠していたいことまで聴こえてしまう時があるから。苦笑混じりにそう言った六華も、伺うように人狼へと視線を遣った。
「わたしは猫だから、貴女が求めている言葉を掛けてあげられないかもしれないけれど……話を聞いて思ったことを言ってもいい?」
真っ直ぐな金色に見つめられたまま、チェインはこくりと頷いてみせる。了承を得た女は一言礼を言った後、静かに話し出した。
「どちらか一方が、あの人の本来の姿…ということはないでしょう。どちらも本物であって、偽物なんかじゃない、あの人そのものだとわたしは思うよ」
秘密は誰しもが持っているもの。それは大なり小なり人によって違うけれど、言いたくないこと、言えないことは……こんな猫でさえあるのだ。
「どうして、そんな風に思えるの」
「どうしてって……それじゃあチェインは、わたし達と一緒にいるときのあの人が演技しているように見える?」
わたしは、自分が目にしたもの、耳にしたものだけを信じることしか出来ないから、ヒトの考えていることは全部理解することは出来ないけれど。
「でもわたしが見る限り、あの人はあの人のままだよ」
「……でも、それならどうして隠すの?ミスタ・クラウスに言えば…」
「……それを恐れているんじゃないかな」
え、と目を丸くする人狼に女は微笑みかけ、金色の眼を細めては件の人を思い浮かべる。そして思えば初めから、あの人に抱いていた印象はこれだったなと再認識するのだ。
「あの人は臆病だ。自分の信じた光≠ェ翳ってしまうことをひどく恐れている。だから不安因子を取り除かなくてはいかないと思って裏で行動しているし、そしてその役目は自分だけだと思っている」
役目を担う自分自身さえ、その不安因子だと思い込んでいるからこそ、光ーーーミスタ・クラウスやライブラの仲間にそれがバレてしまうことを恐れているんだよ。
「もし公になったら、わたし達の前からいなくなってしまうかもね」
「ッ!そんな……、」
「まあ、最後のはあくまで冗談だけれど」
突然今までの雰囲気を壊すような笑顔と洒落にならないジョークをぶっ込んできた六華に、見事振り回されたチェインは勢いで立ち上がった状態でさきほどの言葉を反芻し。暫くしてようやく騙されたことを理解したのだろう、物言いたげな視線でじとりと女を睨みつけながら再び身体を浴槽の中に沈ませた。
ぶくぶくと口から空気の沫を出す様はさながら拗ねた幼子のようだーーー体つきこそ、六華より随分と大人の女性のソレであるが、年齢で言えば遥かに年下なのだ。
「……リッカもそんなジョーダン言うんだね」
「こんなこと、冗談にもなりえないくらい有り得ないことだけれどね」
だってそもそもの話、いったいあの人が何のため、誰のためにあんな汚れ役を買って出ているのか。そんなの考えるまでもないのだ。
「実はこの組織に一番情を注ぎ込んでいるのは、他の誰でもないあの人だなって、わたしはそう思うよ」
「……だから、守ろうと裏でも動いてる?」
「ええ。一人の怖がりが必死になって守っているからこそ、この組織はあり続けているのでしょうね」
絶対的な太陽(クラウス)を守るために、月はその身を削ってでも太陽の周りを廻り続けている。時には半歩後ろを歩き、対等に隣に並び、隠れるようにして背を合わせたりしながら、ライブラという組織は成り立っている。
光は常に前だけを見据え、影は後ろを振り返りつつも光の元から決して離れることはないのだ。
「だから、何の心配もいらないわ。チェイン」
近い距離、一緒に入っている浴槽の中で女は更に人狼との距離を縮め、その身体を抱き締める。
「貴女の知っているあの人は、例え何をしていても変わりはしない、あの人のままよ。……ちょっとだけ、秘密があるだけだから」
「リッカ……」
抱き締め、しっとりと濡れた黒髪に頬を寄せ撫でると、ややあって細い腕が女の背に回ってくる。その震える手は縋りつくように女を抱き締め、互いの胸が間で潰れその奥にある鼓動が感じられるまでに強く、抱き締め合った。
ーーー外では未だ、雨が降り続いている。



【完】
彼お抱えの私設部隊と、彼が一緒にいるところを見てしまった人狼のお話。
彼の新たな一面を見て恐怖を感じつつも何かしてあげたいチェインと、全て知っていてなお恐怖は抱かず何もしないことを選んだ黒猫。
b5のクラステの関係性を読んで堪らず書いてしまった…実際はどうかわかりませんがうちの番頭のイメージはこんなんです。ライブラとクラウス大好きっ子な怖がりさん。

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