九生

□53
2ページ/2ページ


 ───ったく、余韻に浸らせてくれないなんて、空気の読めない奴だな。
 「……大丈夫かい?」
 心の内で悪態を吐きながらも、女に向けて吐き出される声はひどく甘やかで、そして本当にその身を案じているのがよくわかる。
 スティーブンは引き寄せていた身体を離しながら───それでも、横抱きにした腕はそのままである───女の顔を覗き込むと、女は先程よりも意識がはっきりしているようで、強さの宿った金色で男の顔を見上げていた。
 視線がかち合う。たったそれだけのことなのに、スティーブンに再びこみ上げてくるものがあった。
 「……それ、」
 交わっていた視線がずらされ、自身の胸元に落ちたのがわかる。実は敵からの初撃を受けていた、しかし傷を負うまではいかなかった肩から胸にかけて破けてしまっているスーツから覗いているのは、首から提げていたある物だった。

 「……それ、」
 見覚えのある物に、目を瞬かせる。
 それは、友人に茶化され、そして目の前に居る男を怒らせ仲違いをした原因でもある、あの時の指輪だった。
 女にとって初任務であったあの時、二人きりの車内で。夫婦役を演じるのだと指示され、わざわざスティーブン本人が左薬指に嵌めてくれたもの。お返しにと女が男の指に同じように嵌めてやると、男にしては珍しく、わかりやすく気色の表情を浮かべていたのが思い出された。
 思い出して、気付く。もしかしなくてもこの頃には既に、男は自分を好いてくれていたのかもしれないと。
 ───わたしったら、そんな人に酷いことをしてしまっていたのね。
 意図がわからなかったとはいえ突き返してしまった指輪と、男が嵌めていた指輪を一対(ペア)で首から提げている姿から、今の相手の気持ちがわからないほど、伊達に四百年は生きていない。特に家族≠ノ自分の気持ちを気付かされた今では、こうした健気とも取れる行動をとる男のことをいっとう愛おしく感じた。
 「───、」
 「? どうし、」
 徐に、女の手が指輪へと伸びたのを、男は不思議そうな顔で見詰める。一体どうしたのか、尋ねようとしたその瞬間指輪を掴んだ手に引かれ、同時に男の頭も驚く間もなく下がった。
 そして交わる、人とヒトの唇。それはほんの一瞬のことですぐに離れてしまったが、男を驚きのあまり硬直させてしまうには十分すぎる事象であった。
 ───驚かせちゃった、かな。でもまあ、いいか。
 だってわたしは猫だもの。猫は気紛れなのだから、したいと思ったことを素直にするのは当然でしょう?
 本当は今すぐにでもこの大きな手で頭を撫でてほしいし、気が済むまで擦り寄っていたいし、額に口付けて安心させてほしい。あの深く響く低い、でもあまくやさしい声でわたしの名前を呼んで……
 ───ああ、そうだ。今のわたしにはそれが無いんだった。
 それならばと、女は男の首に両腕を回し、抱き着いては互いの頬をくっつける。突然加わる重みと近付いた距離に我に返った男はビクリと身体を震わせるが、構わずにすり、と男の頬に走る傷痕に擦り寄った。
 「スティー、ブン」
 「!」
 そして耳元で紡いだ───紡がれた己の名前に、男の赤色はこれでもかというほどに見開かれる。
 ずっと待ち望んで、求め続けていたのだ。彼女に名を呼ばれることを。それがまさかこのタイミングで呼ばれようなどとは思いもしなかったし、ああというよりさっきから思いがけないことのオンパレードで最早感情が追い付いていかない。
 忘れてはならないのが、まだ血界の眷属との戦闘中だということ。こんなことをしている場合じゃないのは自分も彼女もようくわかっている、わかってはいるが……
 ───嗚呼、なんて多幸感だろうか。
 「お願いが、あるのですが」
 加減なんてものも忘れて、感情のままに目の前の細い身体を抱き締め返す男の耳に、まるで内緒話でもするかのように女の声が直接鼓膜を叩く。その心地好さにずっと聴いていたいと場にそぐわないことを思ったが、お願い≠ニ言われたのならば聞いてやらねばならない。
 ぴったり、隙間なく重なっていた身体をほんの少しだけ離し女の顔を覗き込むと、彼女はまるで小さな子供のように金色を輝かせていた。
 「わたしに、名前をつけてくれませんか?」
 そしてその心地好いメゾソプラノが、甘えるように鳴いたのだった。



【続】
前へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ