僕はオトコに生まれたかった。
□結局は愛しくてたまらない。
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春は出会いの季節であるというのは、教職に就けば嫌というほど感じる。真新しい制服に身を包む生徒たちや、新任教師など、新たな出会いは他の職に就く同年代の人間よりは多い方だと思う。
初々しい少年少女は微笑ましく思うし、新任教師のたどたどしさは当時の自分を思い出してしまうが嫌なものではない。だから新しい出会いというのも悪くはないものだと思う。けれどそれも、仕事という公的な場面においてのみだ。
新入生も見慣れぬ教室に落ち着き始めたころ、毎年減少あれど必ずやってくる大型連休を前にうんざりするほど帰省を催促され、仕方なく実家へ顔を出すことにした。そのことを親友兼恋人に告げると、寂しさの欠片も見せずに「行ってらっしゃい」と言われ、もう少し名残惜しんでくれてもいいのではないかと袖を引けば「帰省を望んでくれる家族がいるのに引き止めたりはしないよ」と言う。「家族」を引き合いに出されては、こちらの分が悪い。かつての記憶に苦々しい顔をしていたのかもしれない。恋人は困ったように笑うと、「何も責めてるわけじゃない。君が大事にすべきものは、他にもあるということを忘れないで欲しいだけだ。君が大事にするものは、僕にとっても大事なものだから」と指を絡めた。
「君在りき、だけど」という甘い言葉とは反対に、すぐに解かれた指の冷たさが何故だか愛しくて、幾分華奢になった肩に額を押し当てた。
「行ってくる」
囁きに近い言葉に、恋人は折り畳み式の携帯電話も持っていないくせに「電話の相手くらいにはなってあげるよ」と俺の頭をゆっくりと撫でた。
然して帰省した俺を待ち構えていたのは、親族の間でも有名な「見合いおばさん」こと伯母の泰子(たいこ)――泰さんだ。泰さんがいるなんて聞いてねえぞ、と母親を睨めば「言ったら帰ってこなかったでしょ?」と飄々と正解をぶち当てられた。
「いいじゃない、ずっと恋人の一人もいなかったんだし。話くらい聞いてみたら?」
冗談じゃない。
「恋人はいるから、断っといて」
泰さんに聞かれぬよう台所で母親に言えば、母親は目を丸くしてパクパクと金魚のように口を開閉させた。
いい歳をした息子に恋人がいたところで、そんなに驚くことではないだろうに。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して口に含む。
「なんで連れてこなかったの!」
ようやく口を開いたと思ったら突然怒鳴られ、含んでいたものを噴き出してしまった。
「そしたら母さんだって、泰ちゃんとあんたの板挟みになることもなかったのに!」
どうやら母親も、「見合いおばさん」に辟易しているらしい。実の姉なのだから、はっきりと「迷惑だ」と言えばいいのにと思いながらも、そんなことでくじけない人だったなと思いなおす。
「本気じゃないんでしょう?」
不意に背後から聞こえてきた声に、親子でぎくりと肩を跳ねさせた。恐る恐る振り返ると、そこにはニヤニヤと笑みを浮かべながらA4サイズほどの何か――おそらくは見合い相手の写真だろう――を抱えた泰さんが立っていた。
「大丈夫よ、お相手は斉くんにお似合いの美人さんで、家柄も文句なしなのよ。ほらほら、見てちょうだい」
口を挟む隙もなく、ダイニングテーブルに見合い写真を置いて広げる泰さんは、俺の腕を引っ張って「ほらご覧」とご対面させる。
「ね? 美人さんでしょう?」
確かに、和服を着こなす女性の面立ちは整っている。どちらかと言えば可愛いと称されるであろう部類だ。でも――、
「性格に難がありそうだな」
八十四年の人生で培われてしまった観察眼が弾き出した見解を、そのままつるりと口にしてしまう。
性格に難があるのは我が恋人もなのだが、あいつの難はまた別のものだ。
「写真だけじゃ中身までわからないわよー」
と笑う泰さんは、少しもめげていない。
どれだけめげなかろうが、こちらも見合いをする気はないので少しも揺らがない。俺の相手は、昔からただ一人なのだから。
「俺にはあいつしか目に入らない。どれだけ言われたって無駄」
「へぇ〜」
とあまり――息子(おれ)にとって――よくない笑みを浮かべるのは母親の方だ。
「それでも一度、会うだけ会ってみない? ほら、気持ちが変わるかもしれないし!」
そんなころころと気持ちの替わる男を紹介された方はたまったもんではないだろう。そう言ってみたところで、泰さんが引き下がるわけもなく、仕方なしに最終手段に出ることにした。
「じゃあ、俺の恋人を説得して見せたら、会ってやってもいい」
そんじょそこらの女とは違う――と、本人に言えば確実に一週間は無視されるが――あいつなら、恐らくはこの伯母を引き下げてくれるのではないかという期待から提案する。母親には「あんた、何考えてるの」と呆れた口調で言われたが、泰さんは乗り気で電話の子機を持ってきた。泰さんも、説得する自信があるのだろう。
「スピーカーでね」
「はいはい」
言われた通りスピーカーボタンを押して、指で覚えた番号を押す。0から始まらなかったことに、二人が驚いていた。
『――はい、新里です』
数回のコール音の後、出たのは万里さんだった。
「この人?」と視線を寄越されるが、無言で一瞥だけを返して、
「あ、大和だけど」
万里さんとは以前一緒に食事をしたときに、同い年であるから気安い口調で構わないと言われて以降、名前につける敬称以外は友人のような距離感で接している。
『あら、斉くん。ちょっと待ってね』
此方の返事を待たずの保留音。泰さんが「なあに、この子」と難色を示すが母親がおかしそうに「あんたどんな頻度で電話してるのよ」と言うので、「用件を聞かれず繋がれるくらいには」と返しておいた。
『――どうしたの?』
保留音がぷつりと切れたと思えば、半日ぶりの恋人の声。
「この子?」と口の動きだけで伝えてくる泰さんを片手で制して、恋人へ話しかける。
「ご挨拶だな。愛しい愛しい恋人の声が聴きたくなったから、は理由にならねえか?」
「なに恥ずかしいこと言ってるの」
母親の小声はもちろん無視。
『愛しい愛しい恋人の声がずいぶん自棄っぱちなようだけれど、どうしたの?』
「ちょっとな。今俺が実家帰ってるのは知ってるだろ」
『もちろん。中身と違って身体はちゃんと十代だからね。つい最近のことを忘れたりしていないよ』
「十代!?」
と声を上げたのは、泰さんの方だ。
恋人が黙る気配がした。ああ、やってしまったかもしれない。最初から言っておけばよかったかもしれない、と後悔するももう遅く。
泰さんに向けた片手をそのまま、緊張しながら声を待つ。俺の緊張につられたのか、母親まで手を胸の前で合わせて子機を凝視していた。
『≪説明≫』
響いてきたのは、二人の故国で使われていた言語。なるほどそれなら他人に聞かれても内容はわからない。
「≪伯母が見合いしろって五月蠅くてな。恋人がいるって言ってんのに、会うだけ会ってみろって食い下がるから、お前を説得できたら会ってやってもいいって言ったんだ≫」
本人を前に言葉を選ぶこともなくこちらも同じそれで返せば、二人の姉妹が目を剥いた。それもそうだろう。英語くらいしか勉強していない俺が、流暢に母国語ではない言葉を操り始めたのだから。
電話越しに溜息が聞こえて、怒ったわけではなさそうだと安心する。
『≪君は昔から何かと僕を巻き込もうとするよね≫』
反論がまったくできない。
「≪困ったときに真っ先に思い浮かぶのがお前なんだから仕方ねえだろ≫」
ふ、と珍しく素直に笑う声がした。
たまらなく、恋しくなった。
ああ、どうして電話越しなのだろう。
その表情を近くで見たい。
触れたい。
『事情は大体把握しました』
言語が母国語に戻り、困惑していた二人がホッとしたように胸を撫で下ろした。つられるように、静止の意味をこめてあげていた片手を机上に落とすと、待っていましたとばかりに泰さんが喜々として声をかけた。
「はじめまして、斉くんの伯母の泰子です」
『はじめまして』
名乗らないのは、名乗る必要もないと思っているからだろう。俺の親族だろうと容赦のない篩いに苦笑していると、母親が隣の椅子に腰かけた。
「さっきのなんなの?」
「んー? 俺たちの国の言葉」
はてなマークを頭に浮かべる母親を横目で見てから、伯母と恋人のやりとりに耳を澄ます。
「お見合いと言っても、なにも恋人関係になることを前提とするわけじゃないの。ただ、出会いを広げるという意味で、会ってみたほうがいいと思うのよ。斉くんのためにも」
貴方が斉くんを好きだと言うのなら了承してくれるわよね、と言外に。
「嫌だわ、泰ちゃんそんな言い方」
「大丈夫、あいつの物差しは正確だから」
あいつは何が<俺のため>になるのかを見極められる。その関係が親友であれ恋人であれ長い時を共に過ごしてきたからこそ、わかるもの。
間違えたのはたった一度きり。けれどそれも、俺の命を優先したからの結果であり、最後まであいつは俺のために生きた。あのすれ違いさえなければと、何度悔いたことか。
「お相手の方にも、きちんと恋人がいるということをお話しておくわ。その上で会ってもらう。どう? 悪い話じゃないでしょう?」
悪い話過ぎるだろう。
俺なら絶対許可しないどころか、見合い写真を破り捨てたあとに紹介しようとした奴の胸倉を掴んで罵詈雑言を浴びせてから、あいつの首根っこをつかんで強制帰還させてやる。
「全部口に出てるわよ」
「出してるんだよ」
実際に起きたなら実行はしないだろうけれど。何故なら、そんなことをすれば確実に殴り合いになるからだ。俺と、あいつで。
「よっぽどなのね」
なにが、と言いかけてやめた。ここで何を言っても意味がない。
泰さんは未だ、傍らの親子に目もくれず、口を忙しく動かしている。
「見目はもちろん家柄も良い方だし、縁を作っておいて損はないわ。もしかしたら貴方のお友達になれるかもしれないし」
家柄を理由にするのは、あいつを説得するにはマイナスだ。もともと自分の身分を疎ましがってたこともあるが、<俺の姉>がその言葉で酷く傷つけたと耳にしたことがある。それも要因の一つとなっているだろう。
そろそろ止めに入ろうかと口を開きかけたとき、今まで沈黙を守ってきた子機から静かな声が届いた。