僕はオトコに生まれたかった。
□バレンタインジャンクション
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今まで当日以外一度も意識したことはなかったが、今年は割と早くからそのイベント日は頭にあった。一般に、女性が意中の相手にチョコレートを贈る日。その名も、バレンタインデーだ。
チョコレートに興味はないが、俺はどうしてもそのイベントに参加したかった。正確に言うと、恋人ならではのイベントに参加したかった。
もう関係を隠さなくてもいい時代なのだ。今まで見送ってきた恋愛行事に、できる限り参加したいという気持ちが湧き出ても仕方ないだろう。
手始めに、理科準備室でコーヒーを飲む恋人に、何気なく二月行事の話題を振ってみた。
「二月? ……節分?」
予想通りの予想外な返答だった。
<俺>と恋愛行事を避けなければならない関係であったという記憶が産まれたときから染みついているから、それが頭を過ぎらないのは当然と言えば当然ではあるのだが、多少は意識してくれてもいいのではないだろうかと思ってしまう。一人でウキウキしている自分が、馬鹿みたいではないか。
「あのなぁ、アルト。二月って言ったら、お前ぐらいの歳の奴はみんな、バレンタインデーって答えるんだよ」
「実年齢と精神年齢の差異故だね」
そんなことを言いながら、ずずず、と品の欠片もない音をたててコーヒーを飲む元貴族の恋人――アルト、もとい新里千里は、バレンタインデーそのものにも興味はないらしく、机の上に置いてあった生物学の本に視線を投じている。話の内容に興味がないにしても、せめてこちらを向いてはくれないだろうか、と少し大きめに「おい」と声をかけた。
「なに?」
視線だけでもゲットしたので、まあよしとしよう。
「チョコレートをくれ」
「……僕は君を怒らせるようなことをなにかした?」
「なんでだよ」
ぱたり、と静かに本が閉じられ、ようやくアルトは身体をこちらに向ける。
相変わらず、スカートの下からはジャージの短パンが見えている。生徒指導の教師から注意しろと散々促されている――俺が――スタイルだ。だからこそなのか、アルトは躊躇いなく足を組んだ。
「僕がそういう扱いをされるのが好きではないと知っているだろう?」
「そういう……って、恋人扱い?」
表情が和らいだのは、一瞬。すぐに馬鹿なの? と言いたげに口角を上げたけれど、俺の目は誤魔化せない。瞬きのような一瞬のできごとに、くらりとするほど自覚するのだ。俺はこいつが、どうしようもなく好きなのだと。
しかし、恋人扱いが気に入らないわけではない――どころか喜んでくれている――のなら、いったい何が好きではないのだろう。
甘いものが嫌いというわけではないだろうし、イベント自体が嫌いというわけでもないだろう。本人が口にしたことはなくとも、目に見えて祝っていなくとも、俺はアルトが記念日を大切にしていることは知っている。
他に考えられることは――。
首を捻り続ける俺に呆れたのか焦れたのか、アルトはおもむろに口を開いた。
「どうして君は今僕に、チョコレートを催促したの?」
「バレンタインだからだろ」
「……君が僕にチョコレートを渡そうと思わないのはなぜ?」
あ。
「わかってくれたみたいだね」
元男であり、その記憶から女を極端に嫌うアルトは、女として扱われるのをひどく厭うている。つまり、<女性から>意中の人物にチョコレートを贈る日という前提が、受け入れられないのだろう。気にしなければいいのにとは思うが、こればかりは仕方がない。原因の一部を担う俺が言えたことでもないし、そこに拘るあいつも俺は嫌いではないからだ。
「だったら、俺がチョコレートをお前に渡すってのは? んで、ホワイトデーにお前からお返しを貰うと」
なにも男から贈ってはならないという規定があるわけではない。これならば、アルトも受け入れやすいだろうと、なんとしてでもバレンタインに参加したい俺は、提示した。
「それなら……まあ、いいかな」
「よし! じゃあ俺、張り切って作るわ」
「え!? 君、作るつもりなの!?」
「当然だろうが」
市販のチョコレートで一大イベントに参戦するほど、俺の<イベント参加したさ>は弱くない。
さっそく何を作ろうかと、スマートフォンをポケットから取り出し操作し始めた俺を、呆れた目で見ながらアルトが呟くように言った。
「当然って……僕は作らないよ」
「是非、そうしてくれ」
厨房を使って異臭騒ぎを起こし、温厚で有名だった料理長を激怒させた記憶を、忘れたとは言わせない。
2月14日、バレンタインデー。俺は、料理部の生徒たちに紛れ、調理実習室にいた。
よくよく考えなくとも、俺は菓子の類を作った経験は一度もない。若葉マークシールすら貼れない未経験者が作って果たして成功するのか、それも食べられるものができるのか、と考えて、荷が大きいという結論に至った。ならば、誰かに教わればいいのではないかと、料理部の顧問に「当日の活動をチョコレート制作にしてくれ、もちろん自分の分の材料費は払うから参加させてほしい」と話をもちかけたところ快諾していただいた。
そうした経緯あって、俺は今、エプロンをつけて部員たちと並んで立っているのである。
「先生も参加するの? なんでなんで?」
当然の疑問だ。顧問の江木福子(えぎふくこ)先生も興味津々といったようすで、聞き耳を立てている。
この日にチョコレート制作に参加する理由など一つしかないと思うが、なにを期待されているのか考えることもなく、俺はぺろりと本当のことを口にした。
「恋人が、今日チョコくれたらホワイトデーにお返ししてやるって言うもんで」
「なにそれー、普通逆じゃなーい?」
「それで手作りなのー? 買ったらいいじゃん」
「え!? ってか、先生恋人いるの!?」
色めきたつ生徒たちに、まあまあ落ち着け、と手を上下に振りながら俺に何か問いかけたそうな江木先生を見る。
「江木先生、始めてください。ほら、お前らも、あとで答えてやるから準備しろ」
絶対だよー、と言いながら、それぞれ準備を始める生徒たちの間を、江木先生のよく通る声が響いた。
「今日は、チョコレートブラウニーを作ります」
かくしてチョコレートブラウニーを完成させたわけだが。
「しまった……包装紙を忘れた」
材料も用意してくれると言うし、材料費も払っていたし、用意するものはもうないだろうと、売店で買ったペットボトルの紅茶だけしか持ってこなかった。俺が女性だったら、恐らくはきちんとそこまで考えられていたのだろうが、生憎と俺は正真正銘の――と言ったらアルトは一週間は口をきいてくれないだろうが――男だ。
俺の呟きを耳にした幾数名が、それぞれ手持ちの未使用の包装紙を俺へと寄せてくれるが、俺はその好意を受け取ることはできない。
「ラップでいいよ」
途端に、各所よりブーイングが上がる。「彼女可哀想」とか、「愛が足りない!」だとか。
俺は、手に持ったラップでブーイングを上げた生徒たちを順番に差しながら、
「いいかー、お前ら。これはな、俺の気持ちを目に見える形にして、あいつに渡すために作ったブラウニーなんだよ」
溢れんばかりに詰め込んだ愛が詰め込みきれずに溢れてしまった結果、俺のあいつへの愛が溢れてしまった結果、その結果、見た目は不細工になってしまったが。
「ブラウニー(それ)にお前たちの好意を混ぜるわけにはいかねぇよ。俺は、俺の気持ちだけをあいつに渡したいからな。だからラップで十分」
ラッピングをして渡してこそバレンタインデーというイベントだろうと思わないでもないが、俺たちにはこれくらいがちょうどいい。
「先生、ホントに彼女のこと好きなんだねー」
青いドットの包装紙を手にした女生徒の、しみじみとした呟きに俺は両眉を跳ね上げる。
「お前らだって、恋人のこと好きなんだろ?」
全員に恋人がいるとは思わないが、青いドットの女生徒は先ほど恋人の話をしていたから、気持ちはわかるはずだろうに。
「あたしは、イベントの一つっていうか……用意するのが楽しいっていうかさぁ。確かにあげたいとは思うんだけど。それに、もしあたしが包装せずにそのままあげたら絶対文句言うもん」
「先生の彼女、ガッカリするかもよ?」
ピンクのストライプの袋を持つ女生徒が、心配そうに首を傾げる。
俺はラップで包み終わったブラウニーをペットボトルの紅茶を入れていたビニール袋に入れ――これにも「ありえなーい」と叫ばれたが――あまったものを口に入れる。形はともかく、味はなかなかだ。
「あいつは、ガッカリなんてしねえよ。呆れるくらいならするかもしれねえけど、受け取りを拒否されたり、機嫌を損ねたりはしないだろ」
与えられたものは評価すれど、与えられなかったものに不満を口にすることはないはずだ。
それは無条件で与えられているはずの命さえ奪われそうになるほど、あまりにも与えられない環境にいたせいか。
そんなあいつが望んでくれた<俺>を、俺は俺の意思が生きる限り与え続けようと決めている。
「受け取って、呆れて、ちょっと笑って、食べて……。きっと不味くても、不味いって言いながら食べるんだろうなぁ」
眉間にしわを寄せて味わうアルトの表情が頭に浮かんで、少し笑えた。
「ってわけで、俺んとこはラップで十分」
その後も、やれ「包装したほうがいい」だの、やれ「せめて紙袋にしろ」だのと訴えられたが、それらすべてを聞き流しつつあまったブラウニーを食べ終えた俺は、江木先生に一言挨拶をして調理実習室を出た。
待ち合わせなどはしていないが、この時間ならあいつはまだ理科準備室にいるだろう。
このブラウニーを早く手渡したい。
渡したらどんな表情をするだろうか。
食べたらなんと言うだろうか。
俺と生徒たちとの会話を聞いたあいつの顔が早く見たい。
早く。
早く。
早く。
気持ちに比例して早くなっていく足は、気がつくと駆けていた。
タッ、タッ、タッ、タッと跳ねるような音を理科準備室の前で途切れさせ、いよいよ扉を開く。
しかしそこに目当ての人物はいなかった。
「なんだよ……」
下がるテンションを自覚しながら、扉を閉めて机まで向かう。
机上には、生徒や同僚からもらったチョコレートが山と積まれている。恋人と巡り逢えた手前、来年からは受け取らないでおこうかとも考えたが、アルトが「君がチョコレートをもらったからと気持ちが揺らぐのなら話は別だけれど、そうでないなら僕はどちらでも構わないよ」と言うので、恋人がいると宣言しているのだからやがて数も減るだろうと、そのままにしている。同時に俺の気持ちが揺らぐことはないという自信表明でもある。続いた「あ、話は別っていうのは、話す価値もないってことだよ」というアルトの目が本気で怖かったからというのは関係ない。断じてない。
一息つくために座ろう椅子を引くと、座面の上に一枚のメモと、よくスーパーなどで三十円程度で売られている2センチ四方の固形物が一つ置いてあった。
気付かずに尻の下敷きにするかもしれないのに、椅子の上に置くなど変わった人間もいるものだと思いながら、メモを手に取る。
そこに綴られていたのは、懐かしい故国の文字だった。
――待ってる。
綻ぶ表情を引き締められぬまま、素早く身支度をして準備室を出る。
途中口の中に放り込んだ固形物(チョコレート)の甘さが、俺を愛しい恋人の元へ「はやく」と急かした。
〜〜END〜〜
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