僕はオトコに生まれたかった。
□僕はアシバを蹴倒した。
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翌日、教室内に僕の机は在った。朝のホームルームもとうに過ぎたというのに、僕の机は、僕の場所に、僕の席として、鎮座していた。もちろん、落書きは新たに追加され、机の中からは何か――恐らく懲りたのだろう、生ごみではなかった――がはみ出している。教室の入り口から見える限りは、紙屑だろうか。
ここで立ち往生していても仕方がないと小さく肩を竦めてから、机へと歩み寄る。くすくすと、届けられた嫌味な笑い声は開く前に叩き落した。
「無視されてやーんの」
どこからか教室内に響いたそれは、僕を笑った人間に対してではなく、僕に対しての言葉だ。
恐らくこの机は朝礼時にもこのままだったのだろう。昨日は大和斉にバレないようにしようとしていたのに、いったい昨日と今日でなにがあったのか。なんにせよ、<ルール>が引き継がれないのならば、このゲームは新たに用意された、今までとは全くの別物だ。
そして昨日の宣言通り、この事態を目の当たりにしても、大和斉はなにも行動を起こさず、そしてなにも伝えなかったらしい。傍目から見れば、それは間違いなく教師がその<事実>を無視したと捉えられるだろう。
それでいい。
なにも関わらなくていい。
君が手を伸ばす必要はない。
僕はその手をとったりしないのだから。
チラリと粟木しずくの席を見る。しかしいつぞやの愉快なお仲間に囲まれていて、粟木しずくの姿は見えなかった。
視線を滑らせて、今度は和多留ゆいを見る。和多留ゆいは、等間隔に並んでいる席に、<隔離>されているようだった。そういえば、和多留ゆいは<無視>されていたのだ。俯く和多留ゆいの表情は見えないが、それがどのような色をしていようが、少しも気にならない。
もう一度だけ粟木しずくのほうを見てから――やはり姿は見えなかった――、最後に多川仁意を見た。
多川仁意は友人たちと楽しそうに会話していたが、僕の視線に気が付くと、眉根を寄せてから目を逸らす。それからまた何事もなかったように友人たちと言葉を交わし、ふざけ合っていた。
それは僕の知る<日常>であり、だからこそ改めて僕は、この日常に馴染んでいなかったのだな、と思う。僕の存在がなくても、なにも変わらない風景。そこに痛みはまったくない。
「ああ、でも」
唯一変わったことと言えば、教室内の人間が僕に<興味>を持ち始めたということだろうか。
狂気を、凶器に、狂喜する。そんな侠気のない、競起に、驕気を高めていく。
疑似成長。
愚考に愚行を重ねていくほどに、自分が<強く>なっていると感じるのだろう。
その手段として、僕に<興味>を持ち始めた。
そうして僕は、<興味>を受け入れた。
利害の一致。
この場で僕が佇んでいるのは、この場から僕が離脱しない理由は、それだけだ。負けた気がするとか、そんな馬鹿馬鹿しい感情論などではない。
今日は椅子に何も塗られてはいなかった。その代わりに、ベタに画鋲が剣山のごとく並べられていたが――すべて丁寧にひっくり返すという行為は、そこそこ面倒だろうに――掌に払い落として机の中のゴミと一緒にごみ箱へと捨てた。
鞄を机の横に引っさげ、そこから一限目の教科書を取り出し、全教科一緒になっているノートも机の上に乗せる。
パラパラパラと一学期までの筆記内容を確認して気づいた。
ノートには魂に染みついた母国語を筆記しているため、内容は僕以外の人間には読めないのだけれど、唯一変換しなかった部分――というより、変換するのが面倒な部分――がある。それが、数字だ。
たとえば「1」という数字は、英語ではone、ドイツ語ではeinsというように、単語に置き換えることができるが、大量に数字の出てくる数式でそんなことをしていたら、筆記が追い付くはずもなく、そして後から理解できるかどうかもわからない。だから僕は仕方なしに、数学の授業に出る数字だけは、そのまま筆記していたのだけれど。
「まさか、見つけ出してまで……」
ノートの中にランダムに筆記される授業内容のうち、数学部分だけが見事に落書きされていたのだ。
その執念に、呆れ果てる。
――キモイ!
――魔女!
――呪われろ!
といった、オカルト系の言葉が多いところから見て、僕の筆記を<呪文>とでも勘違いしたのかもしれない。
それはそれで好都合だし、訂正して利になるわけでもない。そもそも気にするべきは、僕がこの落書きに<二学期が始まった今>まで気が付かなかったということだ。
そう。
僕は、自主学習も、試験勉強とやらも、一切――、
「さて、もう始業ベルが鳴る頃かな」
シャープペンシルを指先でクルクルと弄びながら、授業を受けるために思考を切り替えた。ついでに姿勢も正した。
指先のシャープペンシルを五回転させた頃に鳴り響いた始業ベルと同時に世界史の担当教師が入ってくる。
起立、礼、というお決まりの掛け声のあと、イベントは始まった。
「さ、今学期最初の世界史の授業を――」
「せんせーい!」
世界史教師の今学期最初の挨拶を遮る声は、僕が教室に入って一番最初に聞いた声と同じものだった。
「はい、なんですか?」
灰色のスーツを丁寧に着こなす男性教師は、挨拶を遮られたことになんの感情も示さずに、声を返す。
「新里さんが机にいっぱい落書きしてまーす!」
「学校の備品なのに、画鋲もたくさん捨ててましたー」
オトコの声も便乗し、世界史教師は片眉を上げた。
「新里さん、ちょっと教科書を退けて机の上を見せてください」