僕はオトコに生まれたかった。番外編
□<完>
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「――ただーいまー」
十数分後。扉を開く音と同時に、万里の声が玄関から届いた。がさがさというビニール袋の擦れる音と共に、缶同士がぶつかる音がする。どれだけ買ったんだ、というほど騒がしい。
「おかえりー。何買ってきたー?」
「うーんと、好みが分かんなかったからワインとー」
ダイニングに入ってくる長女のうしろを、気怠そうな娘が続く。私たちだけが残ったことを娘はどう思っているのだろうか。愛しい恋人を母親に独占されて悔しいなんて意外なことを思っていたりするのだろうか。
気になって見ていると、娘が不意に動きを止めた。目が斉くんに固定され、ゆっくりと眉間にしわが刻まれていく。
どうしたのかしら、と袋からお酒を取り出していた手を止める。すると、娘と斉くんはどちらともなく手を伸ばし、その手を取り合うと娘が斉くんの側に歩み寄った。
≪―――――≫
然して娘の口から放たれたのは、聞いたことのない音の羅列だった。
驚いたのはそれだけでなく、娘の表情がこれ以上ないほどの<心配>に満ちている。右の指先で彼の髪を耳にかけるように撫で、頬を掌で包むようにして触れる様は、初めて見る愛しい人間へのそれだ。
掌を頬で受ける斉くんが、苦笑しながら重ねるようにして娘の手に触れる。
≪―――――≫
途端、先ほどまで私と同じ言葉で会話していた斉くんの口からも、娘と同じような音が飛び出した。
≪―――――≫
≪―――――≫
二人にしか理解できない会話が交わされている傍で長女と二人で呆然と立っていると、私たちに気がついたらしい斉くんが苦笑とともに言葉を切り替えた。
「俺は大丈夫だから、『ただいま』くらい言えよ」
「……ただいま」
ようやく娘から私たちの知る言葉が出てきたので「おかえり」と笑みを返す。
「よし、それじゃあ」
お酒の用意に取り掛かろうかと腕まくりをする私を一瞥して、悪戯を思い付いたような声で斉くんが娘に言った。
「お前が俺を好きっていうのが勘違いじゃないのかって、お前の母さん心配してらっしゃったぞ」
それこそさっきの言葉で言ってくれたら、私の心臓は大きく跳ねたりしなかったし、不自然に動きが止まったりもしなかったのに。
ぎぎぎ、と音がするくらいの動きで娘を見ると、娘は心底うんざりとした表情で、まるで吐き捨てるように言った。
「勘違いならあんな苦労する前にとっとと見切りをつけてるよ」
あんまり忌々しそうに言うものだから、長女と顔を見合わせて笑ってしまった。
「だろうな」
疲れたように溜息をついた斉くんはそう呟くと、娘の腕を引っ張ってその頬にキスをした。一切、照れもせずにそれを受けた娘は、今まで見たことのないほど幸せそうな表情で、
「君に言われると腹が立つね」
と憎まれ口を叩きながら、彼のこめかみにキスを返した。
目を瞠る私の隣で長女が嬉しそうに「大胆!」なんて、はしゃいでる。
これはやられた。この娘がここまでするくらい惚れているだなんて。恥ずかしげもなくそんなことをやってのけるのは、外国の<智>か。
「昔はこんなことできませんでしたよ。どこに人目があるかわかったもんじゃない」
私の驚愕に気がついたのか、斉くんが苦笑しながら言う。その手は未だ、娘の指先を弄ぶように絡まっている。
「お酒飲むなら、ソファに移動するよ」
優しいながらも先に指を解いたのは娘の方で、手を繋ぐこともなくさっさとソファへと歩き、身体を落とすように座った。そのうしろをついて行く斉くんはどこに座るのだろうと興味津々に見ていると、彼はやはり娘の隣に腰を下ろした。けれどその距離感は、およそ恋人と呼べるものではない。間に一人分のスペースを空けて、片肘を背もたれにかけ、半身だけを向かい合わせて座っている。斉くんは気をつかっているのかそれだけのポーズだけれど、娘に至ってはついた肘の手の甲側の指で頭を支えていた。
「……千里ったら、あれじゃあ恋人というより、友達じゃないの、それも」
確かに親友と聴いていたし、目の前の光景もその名称で二人を繋ぐならば納得できないこともないが。
「どう見ても、男同士の親友って感じだわ」
我が娘に哀愁を見たことはあれど、色気を感じたことはない。けれど、恋人の前くらいではきっと、多少なりとも色を見せてくれるだろうと思っていたのに。先ほどちらりと見せてくれたやり取りには、確かに色が含まれていたが、あれはまるで幻影だったのではないかと目を疑いたくなるほど、目の前の二人の間に甘いものはない。
今もまた、口論したかと思えば、互いに柔らかな微笑みを浮かべて話を続けている。ああそうだ、私はこれと同じような光景を見たことがある。つい先日開かれた、同窓会だ。各々が当時の友人たちと、懐古を口にしては笑い合っていた姿に似ている。
もしかしたら斉くんは六十年を、娘は十六年を、取り戻そうとしているのかもしれない。