僕はオトコに生まれたかった。番外編
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「前に恋人だった女性を重ねているんじゃなく?」
私が険しい表情をしていたからかもしれない。斉くんは目を瞠り、困ったように自身の指先を見つめた。
「……昔、あいつを好きだと気付き始めたころに、何度も自分に勘違いだと言い聞かせました。これは家族として、これは親友として、これは兄弟として、いっそ同情でもいい、と、恋情や愛情以外の名前をつけようとした」
でも、ダメでした。と、可笑しそうに声を揺らす。
「綻びを目ざとく見つけては引っ張り出して、ほらこれは恋じゃない、と言い聞かせてもやがてそれが愛だと気がつく。そんな絶望的なことを繰り返して……。この想いを<偽物にしようとした>のは、一度や二度じゃない」
指を握り込む動きに、ランチョンマットがしわを作る。かちゃり、と使わずにいたフォークの音が合図だったかのように、斉くんは拳を開いてしわを伸ばした。
放っておいてかまわないのに、と呟くも、彼は手を止めただけで、そのことについては何も口にしない。そうして、無駄な会話は邪魔だとばかりに続ける。
「本物を知っていれば、偽物はすぐにわかる。だから確信を持って言えます。俺は今のあいつを愛しているんだと」
見ているこちらが逸らしたくなるほどの真っ直ぐな視線が飛んできた。本気だとわかるその光に、けれどこれでもかと揚げ足を引っ掴む。
「言い聞かせたと、言ったわね」
「はい」
「自分に甘くなっていたんじゃない? できれば恋だったらいいなぁ、なんてこと思わなかった?」
学生時分、「あの人のことなんて好きじゃない」と言いつつも、どこかで「もしかしたら」と期待してみたなんて経験が、何人かに一人にはあるのではないだろうか。恋に憧れる年齢は人それぞれだけれど、大半は青いころであろう。
てっきり私は、照れるか、いいえと笑われるか、もしくは真面目な顔で否定されるかのどれかだと思っていた。しかし彼は、唇を噛み、悔しそうに、呻くように、
「ありません。俺は絶対、恋にはしたくなかった」
恋情のひとかけらも見当たらないその声に、その表情に、どきりと心臓が強く跳ねる。
「どうして?」
「命に関わるからです」
硬質な声が、部屋を冷やした。
「俺たちの恋愛は、周囲にバレたら処刑されるものでしたから」
殺される。
突然の物騒な響きに、咄嗟にどんな顔をすればいいのかわからない。
「片想いならまだいい。けれど、気持ちが通じ合いでもしたら、あいつまで処刑されてしまう。万が一なら有り得てしまうかもしれない可能性を考えたら、恐ろしくて『恋してみたい』なんて考えたくもなかった」
甘い恋愛小説のような、身分違いの恋だったとか、決まった相手がいたからだとか、そんな答えを予想していた自分が酷く愚かに思える。
「<恋愛ごっこ>をする相手には、リスクが高すぎる」
そう締めくくった斉くんの表情にはもう、なんの揺らぎも見つけられなかった。話しているうちに吹っ切れたのか、それともすでに乗り越えていたのか、微笑みまで浮かべて見せる彼に胸が強く痛んだ。
「私はてっきり、貴方たちを恋人同士だと思っていたのだけれど、好き合っていただけだったのね」
そういえば娘は<すきなひと>としか言っていない。そのことに今更ながら気づき、私はなんて残酷なことを聞いていたのだろうと唇を噛む。
しかし斉くんは苦笑を零し、首を横へと振った。
「いえ、俺とあいつは確かに恋人でしたよ」
「え……? でも」
<気持ちが通じ合うこと>を恐れていたというのに、どうして。
「あいつの気持ちに気がついたので、ならいっそ限られた時間だけでも恋人でいたいと思ったんです。あいつを堕としたことを、俺は今でも後悔していません。あいつはどうか……わからないけれど」
差した陰に悲哀が写る。今まで少しも欠けることのなかった彼のジシンが、脆く崩れていくような表情。娘に訊ねれば簡単に得られる答えを未だ持たないということは、それが彼の虞であり、恐れであるのだろう。かといって私がそれを防ぐことなどできるわけもなく、できることはただ、終わらせることだけだった。
「ごめんなさい、嫌な話をさせたわね」
空になっていた二人分のグラスに水を入れると、彼は小さく礼を言って口に含んだ。こくり、と喉を通る音がよく聞こえて、そう言えば二人きりだったのだと改めて意識する。
「いえ、母親として当然だと思います。あいつの家族が良い人たちで、よかった……」
母親として。
果たして私は、娘に本当に「母親」だと思われているのだろうか。
「どうしてそう思うんです?」
心の片隅に燻っていた疑念が、口に出ていたらしい。斉くんが不思議そうにこちらを見ていた。
私は正直に、娘から「百花さん」と名前で呼ばれていることを告げる。すると彼は、得心したように微笑みを浮かべた。
「貴方のことはちゃんと母と認識してると思いますよ。あいつ、家族に恵まれてなかったというか……前の母親は顔すら覚えてないと思います。俺もあいつの母親は苦手だったということを朧げに覚えてるかな? くらいですし。父親のことも同じでしょう。唯一の肉親だった叔父夫妻なんかとんでもなかった。だからあいつがちゃんと<家族>と呼べるのは、今の家族である新里家だけです。貴方を名前で呼ぶのは、ただ『母』というものに慣れていないだけでしょうね」
近くにいたからこそ、母親だからこそ、ずっと訊けなかった答え。時折どこか遠くを見るような目をするたびに、気になっていたもう一人の「母親」の存在。
「ずるしちゃった」
感極まる胸中を隠し頬杖をつきながら舌を出すと、斉くんはぴょこりと眉をあげて、うんざりとしたように言う。
「あいつが悪いんですよ。なんも言わねえのは本当昔っからなんですから、ずるでもしなきゃ答え合わせすらできませんよ」
「ふふ、あの性格は死んでも治らなかったのねぇ……」
くだけた空気を作ってくれた配慮に感謝しつつ、私は会話を雑談へと移行していった。
――Continue to ...<完>