僕はオトコに生まれたかった。番外編
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俺と彼のあいだに、再び壁が降りてきた――と思った瞬間だ。彼の顎を、今まで傍観していた少女が片手で掴んだのは。
ぐい、と自分のほうへと向け、少女は盛大な溜息を吐く。
「そんな表情をするくらいなら、本心を言うべきだよ」
頬杖をつき、むにゅむにゅと彼の両頬を片手で揉む少女の表情は、酷く呆れていた。
「君は今、何を隠そうとしてる? 何を我慢してる? その表情の意味がどうあれ、君がその感情に蓋をしきれていないことは明らかだ。ならいっそ吐き出してしまったほうがいい。それが例え、どれほど汚い言葉でも」
そうしてこちらに移した視線は、やはり酷く醒めたもの。
「君の同期にも、そのくらいの覚悟はあるだろう」
部外者である少女の試すような物言いに、いささか不快に思いながらも肯定の意を示すため、唇を引き結ぶ。
「まあ、正直な話、謝罪してひとり楽になろうとしているのが気に食わないっていうのもあるんだけれど」
歯に衣着せぬ少女の言葉は、俺の隠れた欲を引きずりだし、目の前に突き出した。その恥ずかしさに顔を上げられず、自然と視線はテーブルに落ちる。
そうだ。俺は一人、楽になろうとしていた。
彼にとって思い出したくもないだろう記憶を無理矢理呼び起こして、ただ一方的に<悪者>から抜け出そうとしていたのだ。
そんな浅ましいことを、年端も行かない少女に指摘されるだなんて、恥ずかしいことこの上ない。
「……本当、ごめん」
繰り返したのは、現状に対して。
顔を上げられないまま落ちた沈黙に、心が収縮する。
「俺は――」
彼が零すように、言葉を漏らした。
「あのころのことは、あんまり覚えてない。なんとかあいつから逃げようと必死だったし、もう誰がどんな顔してるのかもあやふやだ」
少しだけ顔を上げると、「お前の顔も、まだピンとこない」と彼の眉尻が下がる。
「覚えている顔といったら、あいつの周りにいた奴らばっかりだ。あいつらは、事あるごとに俺に『どうして優しくしてやらないんだ』だの『あの子が可哀想』だのと詰め寄ってきてたからな……」
そんなこと、まったく知らなかった。ただ慰めているだけだと思っていたのに。きっと、彼女たちは<彼女>に向けての<善意>でそんな行動をとったのだろう。それだからこそ、余計に性質が悪い。
「だから俺はお前を恨んじゃいねぇよ。有体に言えば、どうでもいい。始まりはお前たちの悪ノリだったけど、俺がお前の顔を覚えていないってことは、お前は途中で嫌気が差したか……あいつの異常性に気がついたかしたんだろう。俺にとってはそれで十分だ」
どうでもいい。その言葉は、強く俺の心を抉った。<好き>の反対は<無関心>なんてよく聞くけれど、確かにそうだ。行き場のない罪悪感を、受け取ってさえ――否、見てさえもらえない。酷いことをしたと自覚している分、楽観的にその荷物をなかったことにするなんてできなかった。
せめて彼のことを見続けていたなら、なにかが変わっていただろうか。少しでも、彼の心を支えられただろうか。僅かでも、いい思い出を残すことができたろうか。
今更悔やんでも遅いことは、わかりきっているけれど。
「――って、ここまで聞けば、完全に俺は被害者面できるわけだが」
不意に彼の声のトーンが変わる。怪訝に思って首を傾げつつ目の前の彼を見ると、彼は依然暗い陰を落とした表情のままで、俺の目を真っ直ぐに見つめていた。隣の少女が不愉快そうに弄ぶストローの動きが、視界の端にちらつく。
「本当言うと、途中で全部放り出そうかと思ったんだ」
「え?」
どういう意味だ。
たとえ放り出してしまっても、それだけで彼を加害者だと非難する者はいないだろう。<彼女>に対してだって、されたことを鑑みれば当然と言える。それなのに彼は自嘲するように笑った。
「お前たちが、あいつに危険な目に遭わされても、あいつから離れられるなら構わない。なんて、こと、考えた」
噛みしめた奥歯の隙間から、唸るように言葉を紡ぐ彼に、愕然とする。彼があんなに憔悴するほど耐えていたのは、俺たちを守るためだというのか。
「岬が……、岬が岡山を階段から突き落としたんだよな?」
震える声は、恐怖からか悔しさからかわからない。彼は一度両眉を上げて、情けない笑みを浮かべた。
「知ってたのか……」
心臓が、落ちた、気がした。
「お、俺はてっきり、独占欲のせいだと思ってたんだが……違うのか?」
彼が、どうでもいい、と俺たちに関心を寄せなくなったとしたならば、きっと彼は友人として――知り合いとしてすら――コチラに戻ってくることはなかったろう。つまりは、関わることもないわけで。そうならば、わざわざ傷つける必要などもなく、嫉妬心を抱かれることなんてあるはずもない。それなのに。