例えばセカイが変わっても、

□例えばホウヨウで潰れても、
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 正直、ちょっと意味が分からないくらいに忙しかった。

 赴任してきたばかりだというのに期末考査の作成をしなければならないことはもちろん、期末が始まる前に各生徒のノートのチェック、復習用の問題プリントの作成と別教科がわからないと尋ねてくる――担当教諭の説明では理解できなかった、教えを乞うのが怖い、等々の理由で――生徒への対応、勉強合宿の下見のための準備などなど、学期末に向けてやるべきことが日ごと増えていく。よって、アルトと距離を縮める暇どころか、アルトと接する時間すらなくなっていた。

 時折反対側の校舎に見かけるアルトは、朝からふらふらと教室以外の場所をうろついているようだった。

 この状況に辟易しながら、そして少しの苛立ちを抱えながらむかえた勉強合宿所の下見の日。

 合宿所には、免許を持っている俺と梅川先生がそれぞれ運転する計二台の車で向かうことになった。俺の車に愛沢原先生と西城先生の若年組、梅川先生の車に城ケ崎先生の壮年組という乗り合わせに、俺が僅かばかりに頭を抱えたのは言うまでもない。しかし愛沢原先生がいる限り西城先生が文句をつけてくることはないだろうし、西城先生がいる限り愛沢原先生がアルトの件を言ってくることもないだろうからまだマシかと気を取り直し、出発する。

 道中西城先生の視線が気になる以外は何事もなく目的地に到着して、驚いた。なんせ合宿所が、高校の勉強合宿で使うにしては立派な、旅館と言っても差し支えないくらい立派な――否、間違いなく旅館だったのだ。小さな民宿を想像していた俺は、唖然とする。

 勤務年数が長い梅川先生曰く、校長の知り合いが経営している旅館で、比較的安く宿泊させてくれるので毎年ご厚意に甘えているらしい。勉強合宿なんて夏休みに入ってすぐで、旅館にとっては掻き入れ時だろうに随分と懐の広い御仁なのだなと感心してしまう。その厚意にがっつり乗っかるうちの校長の肝には毛が生えているのではなかろうか。その毛を教頭の頭にわけてやればいいのに。

 そんなことを思いながらも、日中は使わせてもらう大広間のチェックと長机の数の確認、息抜き用の肝試しのルート確認――俺に至っては木の板を打ちつけるための台の大きさを考えるために場所の写真撮影と設置場所の計測――など諸々の確認を済ませ、日が暮れてから旅館側との最終確認と再び肝試しルートのチェックをしてようやく一息つくことが
できた。

 割り当てられた部屋は、男二人女三人の二部屋なので落ち着けるかといえば、正直、否、であるが。幸い、西城先生は俺とあまり一緒にいたくないのか、部屋には戻ってこなかったので気を休めるには十分だった。

 しかしその代償とばかりに、厄介事が降ってきたのは夕食後、飲み物でも買いに行こうとロビーへ向かっていたときだ。

 目当ての自動販売機の前に知った姿が二つ見え、引き返そうと決意した瞬間、そのうちの一つとバッチリ目が合ってしまったのだ。

「あら、大和先生!」

 逃がさない、という意思はさすがに感じないが、この場面で声をかけてくるということはそういう意図もあるのではないかと勘繰ってしまうほどに、その二つ――愛沢原先生と西城先生という組み合わせは俺にとってはなるべく避けて通りたい面子であった。

 今も西城先生が「大和先生……」ととてつもなく苦々しい顔で呟いている。俺がお呼びではないことは明らかだ。

 それでも一度呼びかけられてしまったのだから、大人として無視するわけにもいかず、一歩後退させていた右足を無理矢理前へと出す。

「どうも。ちょっとそこの自販機に飲み物を買いにきたんですよ」

 と、訊かれてもいないのに自ら二人の目の前に現れた理由を語り、すぐに引き返すから構わないでくれという意思表示。

 西城先生の眉間の皺が数本消えたのを見て取って、安堵しつつさっさと買って戻ろうと歩く速度を上げたとき、再び愛沢原先生が声を上げた。

「ちょうどよかった!」

 ちょうどよくない。と、反射で口にしそうになった言葉を呑み込んで、引き攣る口端を自覚しながら笑みを浮かべる。

「な、んでしょう?」

「いえね、今、西城先生とお話してたんですけど、旅館の裏にもどうやら行けるようになっているみたいで、そこがちょっと崖になってるみたいなんです」

 嫌な予感しかしない。現に、消えたはずの西城先生の眉間の皺が再び顕在している。しかも先ほどより数が多い。

「もしも生徒たちだけで行ったら危ないんじゃないかって話になって」

「はあ、それで?」

「どう注意喚起するかは、その場を確認してから決めようと」

「去年と同様ではダメなんですか」

「一年経ったらまた変わってくるでしょう? 危機管理は徹底しておかないと! というわけで、現場確認に着いてきてくださいますよね、大和先生」

 にっこり笑う愛沢原先生が悪魔に見えたのは言うまでもない。
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