例えばセカイが変わっても、
□例えばヒイキと非難されても、
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翌日。いつものように出勤し、いつものように空席を確認し、いつものように職員室経由で理科準備室へと戻った。見るたびに苦笑を禁じ得なかった空席に、あれほど不安を覚えたのは初めてで、僅かに速度を増した心音が言い知れぬ恐怖を助長する。
この時代においては連絡もなく突然いなくなる、なんてことがあるはずもないとわかってはいても、それだけで御せるほどの胸騒ぎではなく、あいつの姿をこの目で見ない限り不安は増していくばかりだろうと察することは容易なほど、俺は恐怖していた。
もしも今日一度も姿を見ることができなかったら、俺は圧し潰されるだろう。あいつが本当にこの世に存在しているのか、俺の作った幻なのではないか、本当は――本当はアルトという男だって存在していなかったのではないか、なんて、不安に。
そんなことを考えてしまったせいで、一瞬にして膨らんだ恐怖に堪らず理科準備室を飛び出して教室へと向かった。さっきの今で来ているかどうかはわからない。それならそれで、俺の授業が入るまで教室近くで待ち伏せすればいい。そしてあいつの姿を確認したら、少しでも長く側にいよう。この不安を、僅かでいいから昇華させてほしい。
そんな思いで足を速めた。すれ違う生徒たちの中にあいつがいないことが、無性に腹が立って、唇に歯を立てる。大丈夫。大丈夫。きっといる。己の憤りを宥めるように、心の中で繰り返す。
そうしてひたすら足を動かしてあの角を曲がればもうすぐ目的地だ、とさらに速度を上げたときだ。聞き間違えようのない、聴きたくてたまらなかった声が、俺の耳に届いたのは。
「――、どこ行こうかなー」
思わず、足を止めた。
呑気な声だ。本当に、呑気な声だ。まるで明日の天気でも気にするような投げやりに近い声。こちらの心情など微塵も知らない、能天気な声。
たまらなく、たまらなく、たまらない、音。
砂漠でオアシスでも見つけたように、恐る恐る、曲がり角へと近づく。授業開始まであとわずか。それでも「どこへ行こうか」なんて口にするということは、きっとサボるつもりだろう。ということは、今戻ってこなければ、俺はもしかしたら今日一日あいつに会えなかったかもしれなかったということだ。そのことに大きく安堵の息を吐きながら、ゆっくりと歩を進め、曲がったその瞬間、身体にドン、と軽い衝撃がきた。
「あ、すみませ」
果たして後ろへと蹈鞴を踏みながらこちらを見上げ、ぴたりと動きを止めたのは、たった今までどうしようもなく会いたくて会いたくてたまらなかった
新里千里。
ぶつかった衝撃によろめいた身体を支えようと咄嗟に一歩踏み出したものの、そうすればそのまま両腕に閉じ込めてしまいそうで、律して動きを止めた俺のようすに気がつくことなく呆然とこちらを見上げる新里千里――アルトに、身の内を包む安堵を隠しながら呆れた風を装って言った。
「どこ行こうかな、じゃねえよ。授業だろーが」
声が震えなかったことに、内心で胸を撫で下ろす。
「大和斉……」
アルトは俺の名前を口にすると、それから何故だか固まったまま動かなくなった。どうした、と尋ねようとして、そういえば昨日仲違い――のようなもの――をして別れたままだったなと、余計なことを思い出す。
このまま忘れておけば自然に和解に持ち込めたものを。
なんてずるい考えを頭に響かせながら、頬をかいた。
「お前」
第一声がアレだったせいで切り出し方がわからない。何かを続けようとして、しかし何も思いつかなくて、口から出たのは先程と似たような台詞だった。
「授業、サボるつもりか」
「だから、なに?」
アルトの態度は、昨日とは打って変わって拒絶の色が見えない。ともすれば穏やかに思えるほど静かに返された言葉が背中を押す。
「昨日は……、悪かったな」
「なにが?」
なにが、なんて。
「とぼけるなよ、わざわざ『ごちそうさま』ってメモまで残しといて、そりゃねえだろ」
「ああ、職員あい議が人ったんだっけ」
「なんだそりゃ」
やんわりと拒絶されたか、と鎌首を擡げていた疑問は、少しおかしそうに口角を上げながら意味のわからない言葉を口にしたアルトの前に霧散した。どうやら本当に俺が何に謝罪したのかわかっていなかったらしい。ヒヤヒヤさせやがって、と悪態を吐く。もちろん、心の中で。
「いや、ごちそうさま。でも」
「ん?」
「こういうのは、贔屓だよね。一人の生徒を特別扱いなんてしてちゃ、よく思われないよ。だから、やめたほうがいい」
僅かに眉根を寄せるアルトに首を傾げる。
何を言われたのかいまいちわからなくて説明を求めるように見つめたものの、何故だかアルトは俺の視線から逃げるように顔を俯かせてしまった。胸に手を当てて聞いてみろ、ということだろうか。しかしあまりピンとくるものはないのだが。と、すると――、
「お前……」
「なに」
「よく思われてないのか?」
「は?」
俺の疑問に勢いよく顔を上げたアルトの顔には「なに言ってんだお前」とでかでかと書いてあった。そんな理解不能な生物を見るような目で見ないでほしい。嘘。なんでもいいから見ていてくれ。
「いや、よく思われないよって、お前がよく思われなかったからそういうことを言ったんだろ?」
瞬間、アルトはものすごい溜息を吐きたそうな顔をした。なんだなんだ失礼な。
「どうなんだ?」
「あ、のねぇ」
答えが知りたくて急かすと、僅かに詰まらせた言葉と盛大な溜息が返った。まるで肺の中の空気をすべて吐き出すかのような大袈裟なそれに、馬鹿にされているようでムッと眉根に力が入る。
「なんだよ」
「なんだよって、こっちが言いたいよ。僕は君のことを言ったんであって、僕自身のことを言ったわけじゃないんだよ。言っただろ? 僕は人間が嫌いだって。だから、よく思われようが思われまいがどうでもいいだよ。けど、君は教師だろう? 教師が生徒によく思われないとあっちゃあ、この先やり辛いでしょうが」
どうやらアルトは俺の心配をしてくれていたらしい。すでに似たようなことを愛沢原先生に注意されたのだと言えば、今度は全身の二酸化炭素を吐き出させてしまうのではないだろうか。