例えばセカイが変わっても、

□例えばキョウフに駆られても、
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 顔面に<超絶疲労困憊>の六文字を張り付けた愛沢原先生は、とにかく俺に不用意な行動をとらないことを念押しした。新里千里を守りたければなるべく個人的接触を避けろ、と机から身を乗り出してまで言われたので、笑顔で頷いておいた。もちろん心情は「無理」である。

「じゃあ大和先生、しっかり守ってくださいね!」

 もちろん、笑顔で頷く。

「今週末の土日に勉強合宿の下見がありますから、それも忘れないでくださいよ」

 さすがの俺も先程議題に上がったばかりのことを忘れるほど歳ではないのだが、しかしそう返せば眦を吊り上げられることがわかりきっているので大人しく口を噤んで、また頷く。

 素直な反応に疑わしく思ったのか、愛沢原先生は少しのあいだ半眼で俺を見ていたものの「では、よろしくお願いします」と部屋を出て行った。

 静かに扉が閉まり、そっと息を吐き出す。落とした視線に映った手が微かに震えているのを見て取って、小さな舌打ちが漏れた。

 イマはもう<あの時代>ではない。あいつへの恋心(おもい)がバレたところで命の危険はない。それでもヒヤリとした感覚が一瞬襲ったのは、蘇ったばかりのキオク故だろう。刃を突き付けられたときのアルトを喪うかもしれないという恐怖は、この胸に鮮明だ。

 どうしようもない不安に襲われ、逃すために深く、深く、強く、肺から空気を抜く。それでも拭えない感情に、まるで縋りつくような衝動が芽生えた。

 ――アルトに会いたい。

 まだわずかに震える手で拳を握り、立ち上がる。

 今から急げばもしかしたらまだ理科準備室にいるかもしれない。モンブランを食べているかもしれない。だって粟木は俺とともにいたいからと、あれほどゆっくりと掃除に時間をかけていた。ならば。ならば俺が戻ってくるかもしれないと、会えるかもしれないと、待っていてくれているかもしれない。

 冷静に考えれば、アルトがそんな乙女思考の持ち主ではないことに容易に想像がついたが、このときの俺はただ会いたい一心に支配されて自分の都合のいい展開しか視えていなかった。

 果たして三分後、理科準備室の扉を勢いよく開いた俺は人気のない室内に肩を落とすことになる。

 机の上に紙袋や箱はなく、それらはゴミ箱の中に窮屈そうに収まっていた。きちんと食べてくれたようだ。よかった、と口角を上げながら机に近づいて、そこに新たなメモが置いてあることに気がつく。メモ帳と、そこから切り離された一枚とがバラバラに置いてあるのが不思議だが、切り離された一枚に書かれているのは遠目から見る限り文字ではないのでインクの出を確かめるために試し書きでもしたものだろう。

 さて、あいつは何を残してくれたのか。

 メモを残した人間がアルトだと決まったわけではないのに、とっくに俺の中では決定事項になっていて。先程の二の舞になるかと思われたそれは――二の舞となった。メモ帳の一番上には、何も書かれていなかったのである。

「思わせぶりかよ」

 勝手に勘違いしたのは自分だとはわかりつつも、二度も期待を裏切られたのだから悪態をつくくらいは許してもらいたい。あーあ、と声に出して乱暴に椅子に身体を落とす。ひらりと視界の端で揺れた切り離されたメモを、飛んでいく前に引き寄せ、そして――、

 ――会えた。

 悪筆。その一言に尽きる筆跡。私的な文書の際にのみ描かれていた、俺だけが解読可能だった懐かしい綴り。

 試し書きだと思っていたインクの跡は、しっかりと文字の形を成していた。けれどそれは日本語ではなく、俺たちの――アルト(あいつ)ライリ()の故国の文字。

『おいしかった。ごちそうさま。ありが』

 中途半端に切れているのは、書く文字を間違ったと気がついたからだろう。日本語で書かれたメモは扉を開けたときに流れ込んだ風にでも飛ばされたのかもしれない。書かれている内容はきっと、『ありがとう』のあとに署名があるかないかくらいだ。
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