例えばセカイが変わっても、

□例えばシンゾウが止まっても、
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 その一瞬、心臓が動きを止めた気がした。




 どれほど一人になりたくとも、社会人であるが故にそれはままならない。いつまでも理科準備室にこもってはいられず、正直今日の授業を全部自習にしてやりたい気持ちだったが、期末テストも近いこの時期に生徒にとってそれははた迷惑のなにものでもないので渋々腰を上げた。

 少しも消えない憂鬱な気持ちを抱えながら教壇に立つと、内心が表情に出ていたのか生徒たちに「先生、元気ないね」なんて言葉をかけられてしまう。普段ならポーカーフェイスくらい容易に作ることができるのに、それすらもできないとは情けない。ぎこちない笑みとともに「大丈夫」とだけ返して黒板に向き合い、誰にも気が付かれぬようそっと小さく溜息を吐いた。

 もしもアルトが本当に俺を処刑(ころ)したかったとしたならば、それはいったいなぜなのだろうか。俺たちの関係にうんざりしていたから告発したのだと言っていたけれど、処刑の対象には自分自身(アルト)も含まれている。自ら告発したことで減刑になるとでも思っていたのだろうか。そうは思えない。アルトという男は己に対してそのような楽観的な考えは持っていなかった。

「待てよ。そういやなんであのときクメルがいたんだ……?」

「えー? 先生なんか言ったー?」

「なんでもねえよ、板書全部写した奴からノート提出な」

 あのとき――俺がアルトの屋敷で拘束されたあのとき、クメルがあの場にあのタイミングで現れたのはあまりにも不自然だ。アルト以外の人間が何をしていようがどうでもよかったので当時は考えもしなかったが、たとえば事前にクメルとなんらかの交渉をしていたとしたならどうだろう。現にクメルのおかげで俺たちは処刑を免れた――のだから、この説は有り得ない。クメルは家族である弟を見捨てて弟の親友だけを助けるような姉ではなかったから、この手段で刑を逃れようとしたならば必ず俺も助かることとなる。ともすれば、俺だけ減刑される可能性だってあった。

 もしかして、ただ単に関係を解消したかっただけなのだろうか。ならば俺に直接告げればよかった。あんな最悪なオワリ方を選ばずとも、あいつが望むなら俺は関係を解消してやり、そしてただ一人この想いを抱き続けることを決めただろう。

 やはり、どれほど考えても、答えは見えない。

 俺はいったい、何を信じればいい。

 お前はいったい、俺をどうしたい。

 そんなことを悶々と考えながら俺はその日の授業を終えた。授業後に女子生徒数人から「先生、元気出してね」という言葉とともに貰った菓子の類を机の上に広げ、参ったな、と頭を掻く。アルトのことで頭がいっぱいになっているが、俺の世界にはアルト以外にもたくさんの人間が存在している。こんな俺を「先生」と呼び慕ってくれている生徒たちを無下にしていいはずもないし、そんなことをすればアルトの凍えるような冷たい視線に射抜かれるだろう。

 ムカシは俺とアルトの二人がそこに在れば世界がどんな色をしていようがどうでもよかったのに、イマは取り巻く色彩を見るのが楽しい。

「なあ、アルト」

 ころり、と指先で飴玉を転がすと、透き通ったピンク色が太陽光を反射して輝いた。

「やっぱり俺はお前とこの世界を共有したいんだ」

 俺を本当に処刑したかったのだとしたなら、もうそれでいい。俺は結局どう足掻いたってアルトを愛しているし、どんな世界もアルトと手を繋いで見ていたいと思うのだから。

 時折降り注いでくる温かな光を、お前と分かち合いたいと思ってしまうのだから。





 ――その一瞬、心臓が動きを止めた気がした。

 如何にして和解しようかと考えながら、終礼のために教室の扉を開いて目に入ったその姿に、その物体に、その有様に、たった数秒、息が、できなくなった。

 自分の席に着いてぼんやりと一点を見つめているアルトと、その視線の先に落ちているシャープペンシル。それはなんのことない普通の光景だった。なぜ拾わない、とかそういった疑問を抱くだけだろう光景。けれど何故だか無性に、叫び出したい衝動に駆られた。

 ポツリと教室の床に落ちる細身の軸が、何かに重なって。

 それを見下ろすアルトの無表情が、いつかに重なって。

『アルト――!』

 止まった反動からか、途端早くなる鼓動と荒くなる吐息。飲み下すように喉を鳴らして、教室に足を踏み入れた。ガタガタと騒がしい着席音に少しの反応も見せないアルトは、いったい何を考えているのか。

 不審に思われないよう何気なさを装って床に転がるシャープペンシルを拾った。釣られるようにしてアルトの目線が上がる。

 目が合う。

 目が合って、俺を見た。

「お前のか」

「大和……斉」

 呼ばれた。名前を呼ばれた。驚いた風なのは恐らく、先程のやり取りがあったせいだろう。そうだ、先程の件があった。和解。和解を。

 そう思うのに。そう思っているのに。心が強張ったまま、心臓が凍り付いたまま、衝動が荒れ狂ったまま、何も、何も言えない。

「お前のか」

 和解。和解を。

 そう思うのに。そう思っているのに。

 怒りと。哀しみと。苦しみが。溢れんばかりに。今にも溢れそうに。

 アルトがそっと無言で差し出した手。何故だか「綺麗だ」と思った。「綺麗だ」と胸の奥が震えて仕方なかった。まるで触れたら脆く崩れてしまいそうな硝子細工のように思えて、普段の自分からは考えられないくらい静かにシャープペンシルをそっと置いた。

 アルトの反応を待たず、教卓へと向かう。

 心音は、静まらない。

 歯を食いしばり、教卓を強く掴んで、息を吐いて、吸って、理解不能、意味不明、出所不詳の感情を無理矢理抑え込んでから、生徒たちに連絡事項を告げ、早々に帰宅の号令をかけた。それに応じて教室を出る生徒たちと掃除の準備を始める生徒たちを一瞥し、理科準備室へと引き返す道を往く。

 アルトの方は、見なかった。

 まだ時間が欲しい。まだ落ち着くための時間が欲しい。

 恐らくアルトはくるだろう。<罰掃除>をしに理科室へとくるだろう。そうして俺が言ったとおり、<いいもの>をもらうために理科準備室の扉を叩くに違いない。それまでにはこの心の揺らぎをなんとしてでも収めねばならない。
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