例えばセカイが変わっても、
□例えばカンシャを強要しても、
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授業後、<雑用係>の仕事はないかと尋ねてくる粟木を軽くかわして理科室を出た。少し目を放した隙に出て行ってしまったアルトを追うためだ。
大股で歩いてしばらく、見えた後ろ姿に「おい」と声をかける。ただ一声、それだけでアルトは正しく己が呼ばれたと理解してこちらを振り向いた。
「なに?」
きょとりと俺を見上げるアルトは、朝礼に出なかったことなど微塵も気にしていないようすだ。授業を受けたのだから文句などないだろう、とでも思っているのかもしれない。確かに受けないよりも幾分ましではあるが。
「お前、放課後の掃除どうしたよ」
「放課後の掃除?」
これまたきょとりと目を瞬かせ、
「三階の渡り廊下担当だけど……?」
いったい何故そんなことを知りたいのかとでも言わんばかりに不思議そうな表情で、アルトは首を傾げた。
これが話を逸らすための言葉ならある程度ノッてやらないでもないが、恐ろしいことにこいつは本気で何のことかわかっていないのである。たまに爆発するこの天然にはムカシから手を焼かされた。
呆れ混じりに手刀を脳天に落とすと、アルトは大げさに声を上げた。
やめろ、体罰していると思われたらどうしてくれる。
「なんで!? 渡り廊下の何が悪いの!? そもそも渡り廊下って決めたの前の担任だし!」
手刀を落とした場所を右手で擦りながらこちらを見上げるその瞳にやはり<わざと>という文字はなく、これ以上ボケをかますつもりならもう一発くらわせてやる準備をしながら告げる。
「渡り廊下渡り廊下って、別に俺は渡り廊下に不満を持ってるわけじゃねえよ」
「じゃあなんだよ! 渡り廊下に不満がないなら何が不満なんだよ!」
お前の理解力にだよ。と叫ぶ代わりに手刀を振り下ろし、理科室の方角を親指で指した。それでもまだ不思議そうに視線をやる姿に、可愛いと思うよりも前に親友として心配になる。
「お前、サボってた罰として、放課後掃除するっつったよな?」
「あ……」
ようやく気がついたように気まずそうに表情を歪ませた。しかしそれでもまだ往生際悪く、もごもごと「君の爆弾発言が悪いと思うよ」などと宣いやがるアルトの額を人差し指で押して、
「はい、言いわけしなーい」
と言えば、観念したように肩を落とした。
「わかったよ……今日ね。今日する。渡り廊下終わったらしにいく」
二度、だ。繰り返された「今日」にドキリとしたが、この態度を見る限りはウソではないだろう。何よりこの観念したような目がそう告げているし、自分に非があるできごとに対しては嘘をつくよりも遠まわし遠まわしに相手を納得させる屁理屈をこねる奴だ。
「よーし、終わったらいいもんやるから、
理科準備室にこいよ」
「誤解を招くような言い方しないでよ」
「細けーなー、お前は」
「君が気にしなさすぎなんだよ」
「あ、そうだ。お前、粟木に礼言っとけよ」
「な、んで?」
アルトの表情が強張った。女嫌いだというし、もともと粟木に対して何か思うところがあったようだから、それが原因だろう。けれどそれは、相手に礼を言わなくていい理由にはならない。
「お前が掃除しにくるはずだった日、お前の代わりに掃除してくれたのが粟木なんだよ」
「僕の、代わり?」
「そうだ、だから礼言っとけよ」
「嫌だよ」
「は?」
渋々ながらの了承を予想していた俺に返されたのは、反して明確な拒絶だった。
『……ありがとう、ございます』
胃の奥が、ぞっと粟立つ。
「お前がしなかったから、やってくれたんだぞ」
「どうして粟木しずくは僕が理科室に行かなかったってわかったの」
その声に、感情を、真意を探そうとするも、モヤモヤとしたものが理性を蝕み視界を阻む。
「お前が帰って行くのが見えたから、だと。掃除して帰ったにしては早いから、もしかしたら忘れてるのかもしれんってわざわざ俺んとこに確認にきてくれたんだ」
「僕が……」
下ろされている拳に、力が入ったのが見えた。
「僕が粟木しずくに礼を言うか否かは、僕が決めることだ。君に強要されることじゃない」
やめてくれ。
叫びそうになる心を、無表情を装うことで押さえつける。
「なに怒ってんだよ。お前がこなかったから粟木がやってくれたんだぞ」
「それは聞いた」
「なのに礼を言わないのか」
「君に強要されることじゃない」
けれどお前は言ったじゃないか。<あのとき>お前は言ったじゃないか。
「じゃあ俺がこれ以上何も言わなかったらいいのか? お前は粟木に礼を言うのか?」
「言わないよ。絶対に言わない」
繰り返される「言わない」に含められているのは――絶対の意思。頑ななその感情は、どこからくるのか。
「おい、いい加減にしろよ」
俺自身、何故自分がこれほどまでに憤りを覚えるのかわからない。冷静になるべきだと理解はしていても、言葉は留まることなくアルトを攻める。
「お前が知らなかったってことは、粟木はお前に何も言わなかったんだろ? 自分に接点がないとはいえ、知った限り礼を言うべきだろうが。粟木だって」
「五月蠅い!」
強い、意思強い瞳だった。貫くような、射抜くような、怒りを湛えた瞳。再会してから今まで見たことのない、激しい拒絶だった。
「君は正解は押し付けはしないけど、礼は強要するんだね」
嘲笑うような物言いに思わず「おい」と声を上げるも相手にはされず、
「僕に礼をさせたいのなら君が言えばいい。新里千里がオマエに礼を言っていた、って。その方が粟木しずくも喜ぶだろう」
恐らくは、血の気が引いた音だと思う。ざぁ、とノイズが耳の奥で鳴り響き、眩暈にも似た衝撃が脳内を襲った。
「それに、君が僕に礼を強要するのならば、粟木しずくにも同じことを言うべきだ」
差し向けたのか。
自分が掃除に向かわなければ俺と接点を持ちたがっていた粟木が代わりを務めるだろうと予測して、恋敵であるはずの粟木を、好きだと伝えたばかりの俺のもとへ差し向けたのか。わざと。礼を言いたくないのは、自ら仕掛けた策略の功績を奪われるようだからなのか。だから、<予測通り動いてくれた礼>としての対価に<差し向けてくれた礼>を望むのか。
「お前が」
ひどく喉が渇いた。
「そんなヤツだとは思わなかったな」
「どんなヤツだと思ってた?」
アルトの声色から、感情が消える。
その声が想起させる、キオク。
『クメルに、礼を言え。お前のせいだろうが』
「君の思う僕は一体どんな人間? どんなに嫌っている相手でも礼は欠かさない人間?」
『ありがとう、ございます』
「残念、僕はそんなできた人間じゃないんだよ」
重なるその表情が、俺の胸を穿つ。
イフが現実味を増していく。
「君が僕を責めたいのならば責めればいいし、僕はそれを咎めたりしないけれど、絶対に礼は言わない。絶対に」
俺を、責めているのか。かつて礼を強要したことを、望まざることをさせたのだと詰っているのか。
「礼は。礼、は……」
もういい。
もう聞きたくない。
「嫌だ! 言いたくない! 礼なんか、言いたくない!」
以前の俺ならば、突然声を上げた理由に困惑し、焦り、「どうした」と揺さぶっていたことだろう。しかし今は容易に想像がつく。お互い、同じムカシを思い出しているのだ。そしてこれが、あのとき見えなかったアルトの本心だとしたら。
「もういい」
耐えきれなくて、遮った。
見開かれる目の前の瞳と、視線がぶつかり合う。お互い、頭を冷やさなければならない。否、もう俺の心は冷え切っている。引っ張り出された怯臆に、なりふり構わず泣き出してしまいそうだった。
「勝手にしろ」
ぶつけるようにそう言い置いて、アルトに背を向けた。すれ違う生徒たちに声をかけられるのを避けるために駆け足で理科準備室へと戻り、扉を閉めて鍵をかけた。
ひとりに、なりたかった。
「くそ……ッ」
乱暴に椅子に腰かけ、机を殴る。鈍い金属音と返る痛みもやり場のない怒りを収めることはできない。
「なんでだよ!」
なんでなんだ。
「お前は……ッ」
掠れた声が出て、これが怒りではなく哀しみなのだと気がついた。
「お前は……俺を……ッ」
ぐ、と喉が鳴る。吐き出したくない言葉を、塞き止めるように。それでも言わずにはいられない。それでも溜め込んではいられない。それほどまでの哀しみが、去来していた。
あのとき、頭を下げるアルトに、まるで生き残ったことを悔いているようだと思ったと同時に、過ぎったイフ。
「お前は俺を……
処刑したかったのか……ッ」
だからこそ処刑しそこねたことを悔いていたのか。だからそれほどまで、礼に拒否反応を示すのか。本当はイマですら俺に会いたくなくて、嫌っていて、ウラギリモノへの復讐のために偽りの愛を囁いているだけなのか。
「わっかんねえよ……」
わからない。
わからない。
わからない、わからない、わからない、わからない。
誰よりも理解し合っていたはずだったのに。
「なんでだよ!」
あんなにも愛していたのに。
「なんで……」
こんなにも愛しているのに。
「馬鹿みてえ……」
憎まれているかもしれなくても、処刑されそうになろうとも、それでもどうして愛してしまうのか。どうして愛さずにはいられないのか。
「ああ、そうか」
そうか、これが。
これが、<宿命>ってやつか。
――to be continued...