例えばセカイが変わっても、
□例えばカンシャを強要しても、
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月曜日。モンブランを箱ごと入れた保冷バッグを手に出勤した俺は、理科準備室に備え付けの冷蔵庫に入れて朝礼とホームルームのために教室へと向かった。
いつもと変わらぬ教室内に、今日こそはと期待した姿はなく。どうやらあいつはまたしてもサボりらしい。昨日今日で意識が変わるわけもないかとは思いつつも、内心ひどく肩を落として出席簿を開いた。
特に問題もなく普段通りに朝礼と朝のホームルームを終え、連絡事項などを確認するために足を向けた職員室。自席に腰を下ろした途端刺すような視線を感じ、顔を上げた。視界の端に今にもギリギリと音が聞こえてきそうなほど歯を食いしばる西城先生を捉え、そちらへ目を向ければ西城先生は途端に表情を消してわざとらしく
咳く。その様子を見るに、俺に何か非があるわけではなく西城先生個人の感情問題なのだろう。
と、すると。
唯一考えられる<原因>に視線を投じる。スーツや地味な私服の教師たちの中で、一際目立つピンク色のジャージ姿――愛沢原先生へ。
なるほど西城先生の表情の理由はコレだろう。己の席に座る愛沢原先生は、無言で、何かを言いたげに、頬を染めながら、こちらを真っ直ぐに見ていたのだ。
ぞくり。
背筋に奔った悪寒を深呼吸とともに吐き出し愛沢原先生に淡い笑みを向けると、彼女は我に返ったように表情を引き締めた。俺の内心を読み取ったのであろう、「大丈夫です」と首を横に振ることで伝えてくる。頭を過ぎった最悪の事態による表情ではなかったようで安心したが、したのだが、「アイコンタクトなぞしやがって」という西城先生の視線が痛い。なんとも居心地が悪すぎる。これ以上は勘弁とばかりに雑務を片付け、逃げるように職員室を出た。
戻った理科準備室で教材の用意をしながら、今日の予定を脳内に引き出す。今日は一日通して授業が入っているので、アルトを探すとしたならば昼休憩か放課後だが、午前最後の三年生の特化授業――受験に向けて、各々が特別強化したい科目を選べる授業だ――のあとは、生徒たちの質問に答えるために昼休憩は抜け出すことができない。とすると残るは放課後か。そもそもアルトが大人しく授業を受けてくれたならば、探す手間などかけずに済むのに。
「あいつ、まだ俺を避けるつもりなのかね」
気持ちはわからないでもない。
自分を裏切って絆を断ち切った男。それだけでも避けるには十分な理由になるというのに、加えてその
俺には共有する
キオクがないときている。
『認めたくなくて、それでもそれがシンジツで、受け入れたくないから目をそらしているのに、それを言葉にしてしまったら結局僕にとってもシンジツになってしまう』
もしも俺だけにキオクがあって、再会したアルトが何一つ俺を覚えていなかったとしたならば――、
「嗚呼……」
おれはきっと、なきわめいてしまう。
やっぱりお前は俺を愛していなかったのか、と。
やっぱりお前は俺を――したかったのか、と。
俺はこんなに愛しているのに。お前をこんなに求めていたのに。どうしてお前は忘れているんだ。と。肩を掴んで詰って叫んで喚いて泣いて怒って泣いて泣いて嘲笑って、「裏切り者のくせに」とぶつけて、それでも喪えずやり場だけがなくなった愛情を持て余すに違いない。そんな<どうしようもない愛情>を出会うたびに突きつけられるのだから、避けてしまいたくもなるだろう。
「最悪じゃねえか」
ぎしり、と椅子の背もたれに体重をかけて、天を仰ぐ。
「その上、ナンパしてる現場で再会すんだろ? よくもまああいつも見限らずに俺を愛してくれてるもんよな」
それでも。
だからこそ。
「もう、逃がしたくねえなあ……」
そう思う。
あいつに記憶が蘇ったと告げれば、また心を通じ合えるかもしれない。けれどまだ相違や矛盾、そして違和感が残っている。そのことで無意識に傷つけてしまう可能性がある限り、完璧に思い出せるまでは黙っていた方がいいだろう。それ以前に、すべてを思い出せたにせよ、思い出せなかったにせよ、あいつが独りで積み上げていた気持ちを「思い出した」の一言ですべてを持ち去ることは、あいつの努力を無下にするのと同じことではないだろうか。それは恋人としてだけではなく、親友としても赦せることではない。だから――。
「とりあえず、あいつとの距離詰めてから、告白……かね」
あの人間不信の塊のようなあいつと距離を詰めることから始めなければならないとは、先が長さに溜息が出る。まるで呼応するように鳴った始業ベルに、慌てて必要なものを抱えて理科室へと移動した。
意外にもアルトは授業に顔を出した。理科室でその姿を見つけた瞬間、馬鹿みたいに高鳴った胸に、あれほど<誰かを愛すること>を恐れていた自分がなんて様だと内心苦笑する。だが一度は文字通り命賭けの愛を受け止めてくれた相手なのだから、今さら恐れる必要もなかろう。
ただ純粋に愛していられる。
その幸福に、俺は束の間大事なことを忘れていた。