例えばセカイが変わっても、
□例えばコウテイが反っても、
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「あの、さ」
先に沈黙に耐えかねたのは彼女だった。しかし左耳に大きく届いた足音が、続く声を遮る。そのパタパタという足音はつい先ほど聞いた覚えがある。
果たしてやってきたのは、
「お待たせしましたぁ〜」
先刻注文を取りにきた店員だった。
「こちら、アイスコーヒーになります!」
やけに耳に障る高い声に、目の前に置かれるアイスコーヒー。彼女の分のアイスコーヒーは無言でテーブルの中央に置かれた。これを仕事放棄と言わずになんと言うのか、と彼女を見やると、彼女は何を気にした風もなくストローの紙を千切っている。
「えっとぉ」
何故か店員がもったいぶるように盆に手をやり、
「こちらモンブランです!」
語尾を強く発して、再び中央に皿を置いた。
くるくると巻かれたマロンクリームの上につるりと光る栗が二個乗っているモンブランは、普段甘味に興味がない俺から見てもとても美味そうだ。あとで栗だけ一個もらおうか。なんて思っていたら、不意にモンブランにフォークを差し込もうとしていた彼女の手が止まった。
「なに?」
その訝し気な声に視線を上げると、彼女の顔はこちらではなく斜め上――店員のほうを向いている。対して、店員も不可解なものを見るような目で彼女を見ていた。無意識だったのかもしれない。声をかけられた店員は慌てたように首を左右へ、風を感じるほど大きく横へと盆を振った。
「い、いえいえいえ。なんにもございません。お客様が美人でびっくりしただけです」
「美人とか、やめてくれる? ってか持ってきたならさっさとどっか行ってよ」
どうやら<地雷>はルックスのほうだったようだ。途端眉間のしわを深くした彼女は、そのすぐあとに自分の口元を掌で覆った。自分の怒りが相手にとって理不尽だと気がついたからだろう。彼女の普段の物言いから言いたいときに言いたいことだけ言いたい分すべて言うのかと思っていたが、きちんと自分の中で基準があるようだ。それが俺に対してもそうなのであれば、彼女が呑み込んでしまっている俺への言葉は、いったいどんなもので、いくつあるのだろう。
「と、とにかく。君、ガムシロップとミルク忘れてるから。四つずつ持ってきて!」
そんな彼女の声の勢いに押されるように、「はい!」と返事をして去って行った店員。彼女はその背を見送ると、フォークをモンブランに突き立てた。
「嫌味の一つぐらい覚悟してたのにな」
「お前が美人――」
フォークを銜えたままギロリと睨み上げてくる彼女。少なくともあの店員よりも<基準>は下げられていると知って、少し安堵する。
「あー……まあそんな容姿だったから、相手も引けたんじゃねえの?」
「そうかな。それしきのことで怯む店員が、わざとガムシロップを忘れたりするかな」
「気づいてたのか」
「気づかないわけないだろ。常套手段だよ。目当ての人間に何度も近づくためのきっかけを作り出し、相手に不自然さ――さっきのを例にするなら、一気に持ってくることができるものをあえて小分けに持ってくる行動のことだね――それに気づかれた場合でもドジで説明をつけられる程度の工作をすることはああいったタイプによく見られる」
大きな口を開けて栗を頬張る彼女は、誰かと交流を持つようなタイプには見えない。現に、学校で友人といるところを見かけることはなく、自発的に他人と話をしているところなどもほぼ見かけることがない。だとすれば、まるで様々な女性と交流をしたことがあるかのようなその物言いは、人間観察の結果から推測したのか、それとも高校入学以前に何かあったのか。本で得た知識を口にしているにしては、彼女の表情はあまりにも苦々し気だった。
「お前なんかすげえよな、考え方が」
俺が教室まで迎えに行ったときといい、先日の理科準備室でのやりとりといい、いちいち感情や言葉が女子高生らしくない。
「人生経験の違いじゃないの」
「俺より若いだろ」
それに彼女は応えなかった。それがどういった意味を持つのか、やはり俺にはわからない。彼女の<過去>を知らない俺には、<新里千里>を知るにはあまりにも情報が少なすぎる。無暗に踏み込んで彼女の<傷>に触れた場合、癒せるほど心許されていない俺は慰めるための役にすらたたない。ならばいったいどのくらいならば、彼女に踏み込むことを許されるのだろうか。そう思うと同時に、口を衝いて出ていた。
「どうよ」
「なにが」
あまりの唐突さにか、彼女は一瞬だけきょとんとした表情を見せると、すぐに眉根を寄せる。
「ここまで俺と過ごして、どうよ?」
俺と相対することは苦痛でしかない、と言い切っていた彼女。無理矢理授業に引っ張り出し、<デート>と称して短くない時間を過ごした今、彼女の中で俺の立ち位置は変わったのだろうか。踏み込むことを許される距離まで、あとどのくらいだろうか。
彼女は得心したように視線を伏せ、残り少ないモンブランをフォークで掬いながら、
「辛いこともある。でも、君の顔は見慣れたよ」
「やっぱショック療法が一番だな」
その声に少しも感情を見つけられなくとも、これからの時間の中で溶け出すものはきっとある。ともに過ごすことができるなら、その機会は必ずやってくるはずだ。
そんな僅かな希望に縋る自分の滑稽さを、ひとり心の中で嘲笑っていると、彼女がポロリと言葉を零した。
「でも結構残酷だよ」
彼女自身、自分の言葉に驚いたように目を丸くしていることから、それが本心であることは明らかで。ならばいったい何を指しての<残酷>なのか問うてもいいだろうか。逡巡し、きっと今がその機会なのかもしれないと口を開いた瞬間、再びパタパタという足音が邪魔をした。目をやれば案の定、こちらにやってくるのは鉄板――おそらくチキンソテーだろう――を乗せた盆を持ったあの店員だ。
間の悪い。
今にも悪態が出そうになる唇を引き結ぶ。
「お待たせしましたぁ。ガムシロップとミルクを四つずつと、トマトソースのチキンソテー、レモンとハーブのチキンソテーです」
節分の豆まきよろしくバラリとばら撒かれたガムシロップとミルク。引き攣る頬よりも彼女の反応が気になって目をやると、彼女は責めるでもなく呆れるでもなく不可解そうに店員を見上げていた。
それを意にも介さないようすの店員は、こちらに笑顔を向けてくる。
「ご注文はお揃いですか?」
「ああ」
「では何かありましたら、お呼びください」
意外にもあっさりと店員がスカートの裾を翻して去って行った途端、どちらともなく盛大な溜息を吐いた。