例えばセカイが変わっても、
□例えばジカンに遅れても、
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土曜日午前十時駅前オブジェ。カレンダーを何度も見ながら、明日がその日なのだと確認して眠りについた。だからなのか、誰かと待ち合わせをしている夢を見た。
待ち合わせ時間などとうに過ぎているのにも拘らず、俺はベッドで眠っていて<誰か>がくるのを待っている。その<誰か>は、この寝室に立ち入ることを許している唯一の他人だ。
やがて、聞きなれた靴音が耳に届く。
――ああ、やっときた。
遅刻しているのは俺なのに、そんな風に思いつつ忍び笑う。
荒々しく開かれた扉の音に次いで、再び靴音。それに耳を澄ましていると、布団を剥ぎ取られた。
『いい加減にしろ! ――!』
名を呼ばれ、目が覚めた。布団を剥ぎ取られたはずの身体にかかる重みが不思議で、ぱちぱちと瞬きをしてから視線を胸に落とす。そこには昨夜とほとんど変わらない状態で、薄い掛布が乗っていた。どうやら寝ぼけていたらしい。夢を夢だと認識するのに、少し時間を要した。
「あ、何時だ……今……!?」
一瞬、まだ夢かと思った。手に取ったスマートフォンに表示されていた時間は、九時四十五分。最速で準備したって十時には間に合わない。
跳ねる様に飛び起きて、洗面所へと駆けこむ。顔を洗い、準備を済ませて、ベランダに干しっぱなしにしていた白いシャツを寝間着代わりに着ていたタンクトップの上から羽織り、ソファの上に放ってあったジーンズを身に着ける。初デートなのだから、それなりの恰好で行きたかったのだが諦めるしかない。寝坊した上に着る物を選んでいたせいで大幅に遅刻、なんてことを知られたらどれほどの説教をくらうだろうか。今日ばかりは勘弁願いたい。
「んむ?」
俺は、ベルトを締める作業をしていた手を止めた。
何故、説教をくらうと思ったのだろう。不愉快にはさせるだろうが、説教までされるほど苛立たせる遅れではない。そもそも俺と彼女は立場が上下に別れる会話をするほどの仲ではなく、そうであったとしても一度や二度の遅刻なら肩を竦められる程度だろう。
きっとまだ寝ぼけているのだ。夢と現実を混同してしまっているから、そんな辻褄の合わないことを思ってしまう。そう自分を納得させようとし、視線を上げたところで目に入った時計が、一気に考え事を吹き飛ばした。そうだ、夢の世界について考えている場合ではない。俺は一刻も早く家を出ねばならないのだ。
中途半端に止めていたベルトをしっかりと穴に通し、財布とスマートフォン、家の鍵を持って外へ出る。
人目も憚らず、全速力で駆け抜けた。未だ寝起きといってもいい状態のせいか、すぐに全身をだるさが襲い、それでもなんとか駅前と呼ばれる場所まで走り切る。時計を見れば、十時五分。頑張った方だが、遅刻だ。
せめて会う前には呼吸だけでも戻しておきたくて、オブジェまではゆっくりと歩いた。同時に彼女の姿を探すが、どうやらまだ来ていないらしい。
「セーフ、ってことか?」
それとも帰ってしまったのだろうか。けれどさすがに五分――否、改めて時計を見ると十分だったが――相手がこないからと、帰るとは思えない。とするとやはり、<間に合った>ということか。
大きく安堵の息を吐き、オブジェにもたれ掛かる。目の前を行き交う人の波は多いが、人より無駄に高い身長のおかげで、彼女の姿を見逃すということはないだろう。どんな恰好でくるのかはわからないが、どんな恰好であれ、すぐに見つけられる自信があった。
そうして間もなく、彼女は姿を現した。
「やっと来たか」
彼女が知らぬのをいいことに、己の遅刻を棚に上げてそう言うと彼女は疑心を隠しもしない目をこちらに向け、
「やっと、って、いつからいたの?」
「そりゃ十時に決まってんじゃねえか」
そう嘯けば、心底呆れかえった表情が返った。もしや、彼女は待ち合わせ時間にはこの近くにいて、俺が焦ってやってくる様を見ていたのではなかろうか。もしそうなら、潔く謝罪を述べるか、白を切りとおすか。しかしそんな考えは、彼女の小さな溜息ひとつで無用のものとなった。
「まあ、いいけど」
どうやら遅刻していないと嘘をついたことについて――バレたかどうかはわからないが――お咎めはないらしい。ホッとしながら改めて彼女の姿を見下ろし眺める。
長い髪を後ろの低い位置で一つに結んだ彼女は、白のTシャツに、シンプルな淡いブルーのレイヤード、ジーンズという出で立ちだ。正直、もっと洒落っ気のない恰好で現れるのでは、と思っていたので意外だった分、履き古されたスニーカーであることがなんとも惜しい。
「お前さぁ」
せめてサンダルにしろよ、と口を開きかけたが、彼女の肩が一瞬震えたのを見て言葉を変えた。
「せっかくのデートだってのに、その恰好はなくねえか?」
ホッとしたように胸を撫で下ろす彼女は、いったい何を身構えていたのだろう。デートを嫌がる素振りは見せなかったが、<張り切っている>と思われるのではと懸念したのだろうか。
「僕、オンナの服って嫌いなんだよね」
レイヤードの裾をつまみながら言う彼女は渋面だ。どうやら今日の衣装は望んで着てきたものではないらしい。
「もったいねえな。宝の持ち腐れって感じだな」
「ルックスの話?」
「性格はともかくルックスはいいだろ、お前」
「君は僕の地雷を踏むのが得意だね?」
性格を悪し様に言ったことか、それともルックスのことだろうか。前者は確かに彼女が俺を睨む理由に値するものではあるが、しかし話の流れ的には後者の方が正解である確率が高い。とすると、彼女は自分のルックスが嫌いなのだろうか。意志の強さを滲ませる瞳と、揶揄を楽しむ唇は、俺がより愛おしいと感じる部分――「悪い」
思考を遮るように、謝罪を――言葉を口にした。
心など寸分も入っていないことは伝わっているだろうに、彼女はぱちりと瞬きひとつして、
「まあ、いいよ。で、なんで僕を呼んだの?」
じっと、俺を見上げてくる。
黒い瞳に映っている自分の姿を見ながら、俺は両眉を上げて腕を組んだ。
「お前とでかけるために決まってんだろうが」
そもそも初めから<デート>と言ってあったはずだ。もしかして、彼女が拒否の意を強く示さなかったのは、ただ俺が彼女に外での用があると思い込んでいたから、なんてことは――あったらしい。
「いや、だから、なんで僕と出かけるの」
彼女の表情から滲み出る「まさか」という感情に肩を落としそうになる。
「なんでって、お前と俺が仲良くするためだ」
心なしか胸を張りつつはっきりと言えば、彼女は僅かに口を開けたまま沈黙した。呆れ返っているのか、苛立っているのか、せめて愉快が混じってくれていればいいが。