例えばセカイが変わっても、

□例えばセンテイを見抜かれても、
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 放課後。理科準備室で資料の整理や明日の授業の準備をしていると、扉が控えめなノック音を奏でた。一瞬、昼間の件で彼女が文句、もしくは拒否をしにやってきたのかと不安になったが、よくよく考えれば彼女が<俺の部屋>に入るのにノックをするわけがない、と無駄な緊張を解いて「どうぞ」と告げた。

 予想通り、そろそろと開いた扉から覗いた顔は彼女のものではなかった。

「よう、粟木。どうした?」

 意気込んで雑用係をしにきたのか、と首を傾げるがそうではないらしい。粟木は物珍しそうに理科準備室を視線で一巡したあと、少し困ったように笑った。

「あの、センセー、新里さんって……来ました?」

 来たもなにも、クラスのほぼ全員が俺を追って理科準備室へと入った彼女の姿を見ていたはずだ。それは<雑用>を待ち望んでいるようであった粟木も然りだろう。

 問いの意図がわからず「えーっと」と歯切れの悪い声を返せば、何故か粟木は一人得心したように「やっぱり」と呟いた。

「さっき、新里さんが帰っていくの見たんです」

「ほう」

「ほら、新里さんって今日理科室の罰掃除だったじゃないですか」

「ああ……」

 そう言えば、そんなことを言ったような気がしないでもない。当事者たちはすっかり忘れていたというのに、よく覚えていたものだ。彼女の方は、サボっただけかもしれないが。

「それで、時間的に考えてもしかしたら、新里さん忘れちゃってるんじゃないかなー? って思って」

「それでわざわざここまできてくれたのか。悪いな」

「いえ」

 手を後ろで組む粟木は、まだ何か用があるのかそわそわと落ち着かないようすでその場に立ったままだ。<雑用>を言いつけられるのを待っているのだろうか。

 追い出したいわけではないが、このよくわからない状態は勘弁願いたい。それに、女子と二人きり、というのは苦手だ。あらぬ誤解を招き、あらぬ噂をたてられかねない。

「まだ何かあるのか?」

 常になく急き立てるような言葉に、粟木は一瞬目を丸くしたが、特に不快を示すことなく答えた。

「も、もしよかったら、私、しましょうか?」

「何を?」

「理科室の掃除です!」

 それが言いたかったのか、と粟木の期待に満ちた表情を見て胸を撫で下ろした。

「いや、いいよ。理科室は生徒がやる場所じゃねえし」

 もともと理科室は、扱う備品の危険性から清掃員に掃除してもらっている。彼女にさせようと思っていたのは、机と机のあいだをモップで拭くくらいだし、それも結局あとで清掃員が同じことをするから、忘れてもかまわない。

「でも今日は新里さんがやる予定だったんですよね!? だったら私やります! 委員長だし、雑用だし! ね!?」

 必死に食い下がる粟木に苦笑する。

 まさしく、これがコイというものだ。粟木のそれはまだまだ可愛いものであるが、度を過ぎるとキョウキに変わる恐ろしい感情。俺は未だに、この感情を向けられたときの正しい対処法がわからない。

「お前がやるなら、俺が見てなきゃなんねえし。俺も忙しいし」

「教卓のとこでやったらいいじゃん!」

「つっても、生徒には見せらんねえもんとかあるだろ」

 呆れた顔で返すも粟木は諦めてくれず、ムッとした表情でぽとんと言葉を落とした。

「でも新里さんにはやらせるつもりだったんでしょ」

「あー……」

 改めて<理由>としてそれを持ち出されてしまうともう何を理由にしても説得力がなくなってしまう気がする。これ以上首を横へと振り続ければ、<粟木であるから拒否している>ようにもとられかねない。ただ「罰掃除」とだけ言っておけばよかったな、と俺は少し後悔しながら頭を掻いた。

「わかったよ、じゃあ五分だけな」

「やった! あ」

 思わず漏れ出たのだろう喜びの声を慌てて押し留める粟木に、やれやれと肩を竦める。意欲的なのは粟木の良いところでもあるので、迷惑だ、などという私情を告げるわけにもいかず。今後、俺の言葉に傷ついた粟木が消極的になってしまえば、彼女の将来にも変化を齎してしまう可能性が高い。それはいち教師として避けるべきことだろう。教師と生徒という肩書が間にあるだけで、こんなにも感情が窮屈になるのかと俺は今一度理解した。

「じゃあ、理科室開いてるから掃除用具入れにあるモップ出してこい。俺はバケツに水入れてくるわ」

「あ、いいですよ! 私が全部やります」

 理科準備室から出て空のバケツを手に水道へ向かう俺の背中を、慌てたように追ってきた粟木に「いいから」と用具入れを指さす。また押し問答になるだろうか、と不安が頭を過ぎったが、粟木はすんなりと引いた。やはり、彼女は<雑用係>を全うしたいからここにいるわけではないようだ。

 水を入れたバケツを、理科室でモップを手に待っていた粟木の前に置く。その中にモップをじゃぼん、と勢いよく押し込んだ粟木は、その勢いに反して殊の外ゆっくりと床を滑り始めた。とても五分で終わりそうもないスピードだ。

「テキトーでいいぞ、テキトーで」

「いえ! しっかりやります!」

 彼女の中で、<しっかり>とは<時間をかける>ことらしい。まあ五分すれば止めればいいかと、クラス日誌の確認をするために教壇にあがりそれを卓上に開いた。
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