例えばセカイが変わっても、
□例えばアイに背いても、
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さて、授業後。予想通り、彼女は俺を追って理科準備室へとやってきた。
「僕になにか言うことは?」
憮然とした表情で俺を見上げる彼女は、生徒というよりもまるで気心の知れた友人のようだ。それが面白くて、けれど嬉しくて、その表情をもっと見ていたくて、何も返さずに見つめ続ければ、彼女の眉間にしわが数本出現した。そのまま睨み付けられる。これ以上ご機嫌を損ねられてはかなわないので、椅子に腰を下ろしながら側にあったもうひとつのキャスター付きの椅子を彼女のほうへと転がした。どんな抗議でも聴く、という意思表示だ。しかし彼女は、その椅子を返してきた。
「このままでいい。僕は一刻も早くここから立ち去りたいんだ」
「それは、俺の顔を見たくないからだろう?」
改めて問いかけると、「しつこい」と顰め面が返る。
「で、僕を無理矢理ここに引っ張って来た意味と、雑用を押しつけようとした意味を教えてほしいんだけど?」
無条件降伏をしてやった、とでもいうような態度だ。散々駄々をこねたくせに。
「お前、人を悪者にして逃れといてよく言うな」
俺は一応誰に文句を言わせないためにも、正当な理由をこじつけていた。それなのに不当として返されたのには納得がいかない。不満と文句と共にそれを吐き出せば、彼女はおもむろに俯いた。
さらり、と授業中に解かれた髪が、彼女の顔を覆う。それは何度も目にした姿だが、今回は少しようすが違った。
彼女の何が違うのかはわからない。けれど確かに空気が違う。張りつめた糸が、今にも切れそうな空気。
俺はこれを、知っている気がする。
誰よりも。
けれど、誰よりも知らなかったはずだ。
「おい」
俺の呼びかけに、のろのろと顔を上げた彼女は、迷子の子どものように頼りなく、けれどどこに手を伸ばせばいいのかわからないと語る瞳を見せる。
「な、に?」
彼女が、一歩足を退いた。逃げるつもりなら逃がさない、とその間合いを詰めた。
「大丈夫か……?」
「な、にがだよ……」
彼女は気がついていないだろう。己の声が、悲鳴であることに。
「泣きそうな顔、してるから」
泣けばいい。
そう思って口にした。
泣きわめけばいい。
そうしたなら、俺は抱きしめてやれる。
「そんな顔してない」
それでも彼女は強情で、決して瞳に膜すら張らない。
「いや、でも」
「してないっ!」
切り裂くような声で引かれた
境界線。それでもようやく見えた彼女の
感情は、全力で「触れてくれるな」と叫んでいた。
傷つけることが本意ではない。だから俺はそれ以上触れられず、話を戻すしかなかった。
「お前が俺の顔を見るのが辛いってんなら、ずっと俺の顔を見てたらそんな感覚麻痺してくるんじゃないかと思ってな」
「は……?」
何を言ってるんだお前は、という間の抜けた声だ。
「弱点を克服するには、弱点をぶつけ続ければいい、ってこった」
「……僕はそれを喜んで許容するほど、マゾじゃないんだけど」
「別に喜んで許容しろ、なんて言ってねえだろ。嫌でも前を向け、つってんだ」
「前を向け……?」
押し殺したような声に、瞠る。今まで冷静を貫こうとしていた彼女の感情が、音もなく、しなやかに切れたような、地を這うような、声。
「前なんて向いて、なんになるの」
「え?」
「辛くたって、僕はこの辛さを無くそうなんて思わないよ」
魅了される。
きつくこちらを睨む瞳に。
心が震える。
彼女の激情に、呑まれそうだ。
「この辛さも、痛みも、僕にとってとても大事なものなんだ」
彼女がそれほどまで大切にする痛みや辛さは、いったい<誰のため>のものだ?
伸ばそうとした手は、叩き落されるかもしれない恐怖に、固くなる。
「君から逃げてるのに、矛盾してるよね……。でも僕は絶対、君から離れることができないんだよ」
<君>、から。
俺、から――?