例えばセカイが変わっても、

□例えばカメンが隠しても、
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 赴任してきて何度目かになる授業。今回も、やはりあいつは欠席だった。出席簿を見る限りでは前の時間の授業には出ているようだから、少なくとも校内にはいるのだろう。けれどそれも早退していなければ、の話だが。

 彼女の頑固さに舌打ちしつつ、出席簿に<欠>の字を書く。

「あいつ、いつもどこ行ってんだ」

「さっき教室にいたぞ!」

 漏らしたぼやきに、前列に着席していた男子生徒――多川仁意(おおかわにい)――から声が返った。彼はこのクラスのムードメーカーで人気者という地位にいる。だからなのか、ほかの生徒たちからも「俺も見た」「私も見た」という声が続いた。

「教室か……ちょっと捕まえてくるかな」

 途端に、生徒たちが「頑張れ」と囃し立てるように騒ぎだす。大方、俺のいないあいだに自習という名の自由を得たいのだろう。そうはさせるか、と問題集を片手で持ち上げ、

「じゃあお前ら、25ページから27ページまでの問題解いて待ってろ」

 予想通りのブーイング。期待を裏切らない生徒たちに笑いながら、俺は理科室を後にした。向かうのはもちろん、あいつがいるという教室だ。

 なるべく足音を立てずに廊下を進み、目当ての教室に辿りつくと、果たして目的の人物はそこにいた。珍しく、長い髪を後ろで一つに纏めている。気づかれないように後ろからそっと近づけば、彼女はノートに文字らしき何かを書いていた。

≪アルトと千里の≫

 書き途中らしい文章は日本語ではなく、そして英語――否、アルファベットでもない。今まで生きてきて、一度も見たことのない文字――だというのに、何故か、読めた。

 そうして≪アルト≫という<名前>。

 それは、

 それは、



『――離れていても、想っているから』



 それは――、

「あっ! しまった!」

 大きく響いた彼女の声に、心を<ここ>に引き戻される。何事だと見下ろすと、彼女は消しゴムに手を伸ばし、今しがた書いたばかりの文字を消し始めていた。

「まったく……これは日本語で書かなければ意味がないんだから」

 なんて呟きながら、文字を綺麗に、跡形もなく、消していく。

 生まれる、焦燥感。

 ――待ってくれ、まだ消さないでくれ、あと少し、あと少しで――。

「よし!」

 心の中で膨らんだ思いは、またしても彼女の声で形を無くした。どこか息苦しさを覚え、縋るように再びノートに焦点を合わせると、そこには先ほどとは違い、しっかりと日本語で、

「“アルトを越えて、千里の道も一歩から”」

 と、書き込まれていた。

「忍者かッ!!」

 俺の声に間髪を容れず、振り返りもせず、そう叫んだ彼女。声だけでも覚えていてくれたらしいことに、気分は少し浮上してそんな自分に呆れてみる。

 彼女はゆっくりと首だけでこちらを振り向き、それはそれは大きな舌打ちで俺を迎えた。

「少しは隠せよ」

 とは言いつつも、俺に聞かせるための音だということはわかっているので、気にすることはない。とにかく逃げられないことにひとまず安堵し肩の力を抜いた。

「なに?」

 いつぞやのような低い声を無視して、退路を塞ぐために隣の席の椅子の背もたれを彼女に向け、座面を跨ぐようにして腰を下ろす。彼女の瞳の奥が、俺の行為に対しての怪訝から諦めに変化したのを確認してから、改めて問いかけた。

「何書いてんだ?」

 ノートを覗き込む真似をすると、何気なさを装って閉じられる。

「隠すことねえのに」

 もう見てしまっているのだから。日本語で書かれたものも、どこかの国の文字で書かれたものも。

「授業はどうしたの?」

 こちらを見ない彼女の表情を見たくて、椅子を少しだけ近づけて覗き込む。やはりそこには、感情を削ぎ落したような<仮面>。先ほど見せた諦観すら、欠片も見えない。

「お前こそだろ。俺の授業堂々とサボりやがって」

 がたん、と椅子をゆらせば、彼女の眉根が寄った。ずれた仮面が嬉しくて、子どものようにガタンガタンと椅子を鳴らす。

「しかも見事にホームルームにも出ねえし。何か不満があんなら言えよ」

「不満なんてないよ」

 そんなわけがないだろう。もし不満がないのならば、

「なんで俺を避ける」

「君とは気が合わないから」

「たとえば?」

 刹那。

 まるで傷ついたように彼女の目元が歪んだ。注視していなければ気づかない、注視していても気づけなかったかもしれないほど、刹那の変化。いったい何が彼女の心を揺らしたのか。俺と気が合わない理由に何かあるのか、それとも気が合わないという理由自体嘘だということなのか。問い詰めてやりたいが、問い詰めることで、均衡状態にある関係を崩してしまったらと思うと実行することができない。

 あれやこれやと考えているうちに、彼女が口を開いた。

「どうして言わなきゃならないんだよ。君は、自分を避ける生徒全員に、そうやって声をかけるつもり?」

「何言ってんだお前?」

「え?」

 まるで自分が周りと同じ行動をとっていると言いたげなその言葉に、片眉を上げてみせる。

「俺を避ける奴にいちいちかまってられっかよ。けど、面と向かってボイコット宣言されて、尚且つ実行しやがった奴を、気にならないわけねえだろーが」

 少し私情が入っていることも否めないが、それを差し引いても彼女の言動は強烈で、他の生徒よりも突出して記憶に深く刻まれている。本人にその自覚があるかないかはともかく、俺の行為は<仕方のないこと>だと思う。

「で、わざわざ授業中なのに探しにきたってわけ?」

「おう、事情を聴きにな」

 わざとらしい呆れ顔でこちらを見る彼女に笑う。

 それでいい。

 なんの気持ちも見えない仮面よりも、偽物の感情に彩られた仮面の方がよほど心を感じられる。今はまだ、それだけでいい。
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