例えばセカイが変わっても、

□例えばジカンに遅れても、
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「まったく、君は。いいよ、今日は付き合ってあげる。それで、どうするの?」

 降参とばかりに吐かれた言葉に少し笑う。どうやらデートを続行してくれるらしい。そのことにホッとした瞬間、腹の奥がきゅうと縮むような感覚が襲った。そう言えば、俺は朝飯を――自業自得だが――食べていなかった。時刻は十時二十分。昼にはまだ早い。

「お前朝飯食ってきたか?」

「食べたよ」

 当然のように返される。――まあ、当然か。

「メニューは?」

「卵焼き、味噌汁、おにぎり」

「和食か」

「今日はね」

 ここまでしっかり食べてきたということは、彼女は俺と違って遅刻に慌てふためきはしなかったのだろう。ともすれば余裕を持って家を出て、やはり俺をどこかで待っていたのかもしれない。

「君は食べたの?」

「食った」

 疚しさから即答。

 疑いの眼差しが痛い。

「ツカミ、みたいなもんだ」

 苦し紛れの一言だったが、彼女は深く突っ込むことなく「芸人みたいだな」という感想だけを述べた。

「まあとにかく、お前が飯食ったならメインに行くか」

「決まってるの?」

「なーんにも」

 そもそもデートの約束だって、つるっと口から出てしまっただけなのだ。今日この時間を空けるために仕事を片付けるのに少し無理をしたから、プランを考える時間もなかった――というかプランを考えるという考え自体がなかった。十代の時のデートなんていつも着いて行くばかりだったし、二十歳を越えてからは私用で出かける俺にくっついてくるのを<許容すること>がデートだった。『二人で遊びに行きなよ』『ちゃんとデートしてあげてよ』と言う周りの言葉は、相手の『一緒にいられるだけでいいの』で表面上は沈静化した。俺は何も言わなかった。

 そういうわけで、自発的なデートは初めてなのだ。

 これでは呆れられても仕方ないなと彼女に視線を向けると、やはり彼女は今にも頭を抱えそうな顔をしていた。

「君は…………、本当、馬鹿だな」

 しみじみと言われた。

「まあ気にすんな。とりあえず、デートスポットが載ってる雑誌でも買いに本屋にでも行くか」

「僕は、まさかそこから始められるとは思わなかったよ」

「俺もだ」

 それでも彼女は「帰る」とは言わない。それが、そんな些細なことが、たまらなく嬉しい。

「お前地元だから知ってるかもしれんが、向こうの通りに大型の書店があるんだ。ちょっと駅から遠くなるけど、そこなら色んな雑誌が揃ってそうだし、一つくらいは興味の惹かれるもんも見つかるだろ。十時半からだから、開店直後に入ることになるけどお前そんなの気にしないよな?」

 隣を歩く彼女に訊ねる。しかし、彼女は憂いと愁いが混ざり合った目を前方に向けるばかりで、こちらを見ようとしない。いや、そもそも俺の声が聞こえていないのだろう。確かに隣にいるのに、存在が遠のいて、透き通っていく感覚が胸を襲い、先走る喪失感に慌てて腰を折って呼びかけた。

「おい」

 返事はない。

「おい」

 二度目も反応はなく、焦れる。

 彼女の耳元に唇を寄せる。近づいたことで強くなった存在感にどこか安堵を覚えながら、最後の一押しとばかりに大きめの声で三度目を口にした。

「おい、お前、人の話聞いてるか?」

 びくりと肩が震え、ようやく彼女は俺を見る。そうして今初めて気がついたと言わんばかりの眼差しとは裏腹に、首降り人形のごとく上下に頭を振った。

「き、聞いてたよ!」

「じゃあ、なんの話してたよ」

 言葉に詰まった。当然だ。

「えー……っと。と、等速直線運動の、話?」

 おずおずと、おろおろと、ゆらゆらと、瞳と視線を泳がせて口にした言葉は、正解にかすりもしていない答え。確かに俺は理科教師だが、等速直線運動を用いる問題とはほとんどお目にかからない。

「馬鹿かお前。俺の担当科目は生物だ。んで、誰がデート中に等速直線運動の話なんかするかよ。馬鹿かお前」

 きっぱりと滑舌よく言ってやれば、彼女はこの世の終わりのような顔をした。

「き、君に、君に馬鹿って言われたくないよ!」

「おい、そんな本気で怒んな。俺が凹む」

 あまり教師らしい行動はしていないと(いえど)も、これでも教員免許を持つ立派な教師だ。社会人としての自覚もあるし、大人としての振る舞いも心得ていると思ってはいる。それなのに、そこまで表情すべてで<ありえない>と叫ばれると、自信がなくなってくるではないか。

 よほど情けない顔をしていたのかもしれない。何か言葉を返そうとしていた彼女は、俺を見るとぱくりと開けた口を閉じた。言い過ぎた、と思ったわけではないだろう。その証拠に、真一文字にした唇の両端が僅かに上がっている。隠しきれていないことを指摘してやろうかと思ったけれど、せっかく喉に押し込んでくれた言葉を引っ張り出すような真似はしたくないので、やめておいた。

「お、着いた」

 すでに自動ドアの向こうの書店内には客が複数いるのが見える。

「ほら、早く行くぞ。時間なくなっちまう」

「あ、待……っ」

 ぽいと隣に声をかけて少し歩く速度を上げた。駆けこむように自動ドアを潜ると、そこからまるで世界が変わったかのようにひんやりとした空気が肌を包む。さっ、と右の二の腕を一撫でしてから、俺はガイドブックコーナーに足を向けた。




 ――to be continued...
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