中編用

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 死ぬことに、恐怖を抱いたことはなかった。
 自分は母の顔を知らなかった。もちろん、生物学上の母親はいるのだろう。だが、物心ついたとき、自分は一人だった。
 スラムという、上流層に住む人々にとってはゴミ箱のような場所で生きてきた自分にとって、周りは決して信じてはいけない存在だった。
 誰も愛さず、自分だけを愛し、自分だけの為に生きる。それが自分の信条だった。
 そんな自分にも、ただ一人心から信じることのできる存在がいた。兄のような、親友のような、母親のような、父親のような、存在。
 名を諏佐佳典。物心ついたとき、一人だった自分を拾った物好きな少年だった。
 自分の行動に常に頭を悩まし、それでも自分の傍から離れないような奴だった。きっと彼のおかげで自分はそこまで世界を嫌いにはならなかったのだろう。
 お人よしかと思えば冷酷の一面も持つ諏佐は、今吉に甘かった。都市もきっと同じのはずなのに、できる限り自分を甘やかしてくれたのだ。
 そんな諏佐は死んだ。理由は酒に酔った男たちの暴力によってだった。脳に多大なダメージを負った彼はひっそりと息を止めたのだ。
 本当は、自分もそこで死ぬつもりだった。
 だって、唯一の居場所である彼をなくした自分には生きる理由なんてなかったから。ぬくもりを失って、冷たさだけを残したまま生きるなんて、耐えられなかったから。
 死ぬことに、恐怖を抱いたことなんて一度だってなかったのだ。
 それでも自分は生きた。それはきっと、死に際の諏佐の言葉がずっと耳のこびりついて離れなかったからだ。
 暴力によって理不尽にも命の灯を消そうとしている最中、なす術もなく手を握るしかなっ太自分に諏佐は言ったのだ。
 どうか生きてくれ、と。

 ――いつかの日、お前はこの世界をきれいだと言った。だから、生きてくれ。

 死ぬも生きるのも同じだった。それでもこの世界は大きくて、広くて。きれいだった。

 最後まで、自分を心配して死んだ友。この友はどこまで自分に甘いのだろう。
 彼の優しさは、真綿の鎖にも似ていて、自分を死から遠ざけた。
 彼が言うのなら生きてみようと思った。自分らしく、自分の意志にのっとって。最後まで、死に抗って巳ようと思ったのだ。
 だって、彼は言ったのだから。

 ――自分しか、愛せないお前にも生きていればきっと、誰かを愛せるよ。

 と。
 そして、親友の言葉は当たった。
 見つけた。出会った。
 眩いばかりに強い光を放つ群青に。
 彼の為ならばこの命すら惜しくないと思えるほどに、愛おしいと思った。
 愛しいと思えたのだ。

 ああ、生きることは素晴らしく。人を愛することは、こんなにも幸せなんやなぁ、諏佐。

 大好きな親友に向かって、今吉は微笑んだ。



016/9/25

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