連載第3回



「疲れました」
「そう」
「生きてゆくのに疲れました」
「そう」
 僕は口をつぐんだ。彼女はいつもの素知らぬ顔で、無機質な天井を見上げている。
「あなた、生きてたの」
 彼女がぽつりと呟いた。僕は項垂れた。
「はい。生きてきました。このようにただ在る事を、生きると呼ぶのであれば、私<ワタクシ>は、恐らく生きてまいりました」
「ああ、そう…」 彼女は何にも無頓着なのである。
 僕は遣る瀬なく冷たいデスクに腰掛けた。
 赤ん坊を抱きかかえた木の上の揺りかごは、風が吹くと落ちて川に流される…眠る赤ん坊を道連れに…
 気付いたらこんなところにいるはめになる。
「あなた、死ぬの?」
 不意に彼女が尋ねた。
「わかりません。死のうかと、考えていたところです」
「じゃあ、あなた本当に生きてたのね。死ねるんなら」彼女は平然と言った。「で、なんで死ぬのよ」
「生きてゆくのに疲れたからです」
「馬鹿ね。死ぬのは生きる事よ」
「死ねば生きた事になるのでしょうか」
「死んだらオシマイに決まってるでしょ」
「…それは矛盾と呼ぶのでは?」
「パラドクスと呼んでちょうだい」
 彼女はただの白い紙切れだというのに、あまりにも複雑だった。世の中みんな、そういうものであった。僕は泣くにも泣けず、半開きのカーテンの隙間から差し込む光の中を浮遊する、ホコリの渦にじっと視線を注いだ。


「なんで笑ってるの?」
 言われて、僕は笑みを浮かべている事に気が付いた。今までずっと、笑みを浮かべて生きてきた事に気が付いた。
「笑っていますか、私は」
「笑っているように見えるわ」
「そもそも、笑うとは何なのでしょう」僕は自分の口角のあたりに触れた。「私には、それはただただ深いシワをつくり、顔を醜く歪めているだけのように思われます。歪めて、その内にあるものを他人<ヒト>に見せぬようにするのです。人間は皆、そうして笑います。誰に習ったわけでもなく、いつからか私もそうして笑っていました」
「…よく喋るわね」
「私は、もう死にますので。やっと死ぬ時が来たのです」
 彼女は一瞬押し黙り、それから甲高い声で笑った。耳を塞ぎたくなるような響きだった。僕は怯んで机からずるりと下り、あとじさった。
「やっと死ねる?」 嘲笑の合間に彼女は言った。「あなたって、もうあきれるくらいにネガティブね!馬鹿みたい、何よそれ。何サマ?」
「そういう意味ではありません」 笑い続ける彼女に言い返す。「もう十分に生きました。それは長い間。死んで後悔するような事は何もありません。死ぬ時が来たのです。私は、死を受け入れます」
「カッコつけないで!結局、もっと生きたいって思える生き方をしてこなかったんでしょ。生に満足するなんて、そんなつまらない生き方ないわ。しかもあなたの場合、十分に生きたなんて真っ赤なウソ。ウソウソウソ。ペンなら、持ってるでしょう?」
 ペンなら持ってるでしょう?
「い、いえ。私は…」
「…いいの。気にしないで」
 先程までのぞっとするような勢いは消え失せ、僕達は再び、水飴のような沈黙の中に沈んでいった。


 僕は彼女を手に取った。
「…何?」
「私はゆきます。その前に、あなたを裁断機にかけようと思います」
「……馬鹿ね」
「はい。私は愚かでした。最後の最後に、唯一利口なことをしようと思うのです」
「…あなたの服は真っ白ね」
「これも私の笑顔なのです」
「白はいいわ」彼女は体を揺らめかせた。「でも、そればかりもつまらないわね。あたしはずっと白のままでいたけれど、そろそろ、あきちゃったみたい」
 僕は彼女をしばらく見下ろしていたが、とうとう一歩踏み出した。
「ねえ」
 存在も存在した証も消されようというのに、彼女は、いつもの美しさを保ち続け、凛としていた。一輪のバラのようである。
「あなた、いろんな事を忘れているわ」
「あまりにも、すべてがみじめだったものですから」
「そんな事じゃないの…。あなた、ペンを持ってるでしょう?」 僕の視線に気付いて、「ペンだけじゃない。ペンを持つ手の動かし方も、その手の存在すらも忘れてる。それでそのペンと手と腕とあなたのすべてを使って、何を描けばいいのかも忘れてる。何故その何かを描かなければならないのかも」
 僕は言葉を失い、そして、みじめさに笑った。我ながら気味の悪い笑い声だった。彼女はその笑い声を受け、不快そうに身をよじった。


 僕は再び歩き出した。彼女は抵抗しなかった。抵抗できないからだ。
「赤なんて素敵よね」しばらくして彼女は言った。「大胆に、黒なんてのもいいかもしれない。でもやっぱり、カラフルなのがいいわよね。知っていて?あたし、何にでもなれるのよ。だって、真っ白なままなんですもの。蝶になって自由に飛びまわる事も、木になって大空に枝を広げる事もできるんだわ。そうなればどんなに楽しいかと思うと同時に、こうしてただの白い長方形でいながら、そんな将来と可能性に思いを馳せる事自体が、ねえ、とってもしあわせだったの」
 僕は答えず、相槌すら打たず、足を止めた。目の前で、無骨な機械が口を開けて彼女を待っていた。
 僕の死は当然の事に思えたが、彼女が死ぬのに理由はなかった。それでも、彼女はただ語った。夢見るように体を揺らめかせて。
「そうだ。あたし、人間がいいわ…」
「それだけはやめた方が」思わず呟く。
「なぜ?」
「それは…もっとも醜い生き物だからです」
「そうかしら」
「そうですとも」
 死の縁にいながら、彼女は自身の身なりをちらちらと確認した。
「あたし、醜いものにはなりたくないわ」
「あなたは美しいですから」
「でしょう?」 平然と答える。「だから、あたし、人間がいいの」
 将来を語る彼女を前に、僕は機械のボタンを押した。見えない刃が、異様な唸りとともに腹の中で動き始める。


「さようなら」と僕は呟いた。それは、去りゆく彼女への言葉というよりは、去らんとする僕の意志であった。
 彼女は最後までつめたく、あたたかく、そっけなく、優しかった。矛盾だらけで、それがまた、美しかった。
「あなたが“美しい”って言ってくれて、それだけは、嬉しかったわ」
 彼女は確かに美しいのだ。ただ一枚の白い紙、使われる事のなかった、ただの一枚の白紙が。そのピンと張り詰めた雰囲気、無垢な純白の、聡明で品のある美しさ。その形は、この世で最も美しいとされる比率。寸分の狂いもなく。
 あまりにももろい彼女は、あっという間に機械に飲み込まれてゆく。彼女は声をあげず、機械だけが凄まじい咆哮をあげる。
 生きるよりは。そう、僕は考えた。

 私は、もうゆきます。
 それまでの短い間、もしあなたに似たものを見掛けたとしても、それはあなたではないでしょう。
 あなたほど私を悩ませ、傷つけ、それでいて心を奪う存在は、この世のどこを探しても見つかりますまい。

彼女は、彼女だけだ。
そう気付いた瞬間、息が詰まり、顔面を殴られたかのように目眩がした。思わず彼女を引きずり出そうとしたが、彼女はもうどこにもいなかった。
僕は泣き叫び、なすすべもなく冷たい機械にすがりつき、喚き、揺さ振り、殴りつけ、懇願した。何の返答もなく、それはただ、何かの、何かの残骸を、空っぽの腹に収めて、そしてようやく動きを止めた。
あとには、わびしい静寂と孤独とが、重苦しく室内に垂れ込めていた。


僕はしばらく胸もつぶれんばかりの思いで機械を凝視していた。そしてゆっくりとそれに背を向け、部屋を横切り、あの四角い固いデスクに戻った。ついさっきそうしたように、その上に腰掛ける。
痛いほどに静かだった。デスクの上、僕の後ろに彼女は居ない、それ以外に世界は何も変わらず、セピア色の景色に差し込むおぼろな光の中、ふわりふわりとホコリが舞っていた。
初めて、愛しさに僕は泣いた。

あなたは、私に、えがけと言っていたのですね。
しかし、そのあなたはもうどこにもいない。

膝の上でじっとしている僕の手には、ペンがあった。色とりどりの筆が、無限に、僕の内にある。
見下ろす。キャンパスなら、ここにある。
眩しいほどに生まれたての白、僕の服、彼女の体に、さあ、色とりどりの 生 をえがこう。








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