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□籠の中の鳥
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玄関を開けると、鉄臭いにおいに鼻が敏感に反応する。
少し目を離せばいつだってこうだ。
思えばあの頃からだったと思う。
俺がこうやって帰りが遅くなると宍戸は決まって己の体に傷をつけるようになったのは。
昔、一度だけその場の雰囲気に飲まれて宍戸以外の女の子を抱いた事があった。その時はかなり帰りが遅くて宍戸が心配している事だけは容易に想像ができた。
しかし実際はそんなものではなかった。
リビングで深刻そうな顔をした彼女を見た瞬間に、俺は触れてはならぬものに触ってしまったのだと確信した。
彼女には、自虐的な一面があり、何か事ある毎に自分を責めては傷つけていたのだ。
そのせいか常に体のどこかに傷や痣があり、絶えることはなかった。
『俺にはお前しかいないのに』
涙を流しながら手首に赤い花を咲かせている彼女は酷く儚くて。
それから俺は絶対に宍戸以外の人間を交わったりしないと誓ったが、彼女は酷く臆病だったから俺の帰りが遅くなる度にその細い手首に赤い花を咲かせていた。
ふと辺りを見回せばそこは一面、血、血、血。
(輸血用のパックが何個あっても足りんっちゅーねん)
忍足は玄関に鞄を置き、手近にあったタオルを持つと、恐らく宍戸がいるであろうリビングに向かう。
リビングに近づくにつれて鉄の臭いがきつくなる。あながち外れてはいないようだ。
リビングの扉を開けようとした時に、黒い影が見えた。
いや、それだけだったら問題はなかったのだ。(実際のところ問題はあったがそれは置いておいて)
「…浮いとる…?」
扉越しに見えた黒い影の足が床についていないのだ。
――…まるで、首を吊っている様で。
忍足はさぁっと青ざめると、急いでリビングの扉を開ける。
すると、そこには手首から赤い鮮血を流しながら首を吊って涙している宍戸の姿があった。
「……宍戸っ……!」
慌てて落ちていたカミソリを拾い上げると、宍戸を抱き上げながら吊られていた縄をそのカミソリで切る。
刃むき出しのカミソリが何度も忍足の手を血に染めたが、そんな事では忍足は諦めなかった。
ようやく縄が切れて宍戸が解放されると、忍足は慣れた手つきで手首の動脈、首の動脈、心音、呼吸と確認をしていく。
(どれも弱い…せやけど、微かに息がある…!)
そう確信すると、忍足は血が止まらない手首を押さえながら必死に止血をした。
包帯が底をつけば新しい包帯を取りにクローゼットにまで行き、宍戸の虫の息が途切れそうになれば人工呼吸をする。
当たり前じゃないけど当たり前な非日常的な行為を繰り返しているうちに時が過ぎ、ついに宍戸が意識を取り戻す。
忍足が優しく頭を撫でると、少し照れたような顔をして何度も声にならない声で唇を動かす。
やがて、その声は微かながらに忍足の耳にも聞こえてきた。
「…おした…り…」
「…やっと声が聞けたわ、無事でよかったで…」
忍足が優しく口づけをすると宍戸はくすぐったそうな表情をする。
「あんな宍戸、この世には手首を斬るために作られたカミソリもなければ、首を吊るために編まれた縄もあらへん。使い方を誤るのは、いつも人や」
そういうと忍足は真剣な眼差しで宍戸を見つめる。
「もう命がいくつあっても足りひんわ…せやからお願いや、もうこんな事しないでくれ…」
そうすがり付きながら懇願する。
でも宍戸は素直に頷く事はできなかった。
だって彼女は長年の監禁生活で完全に心が病んでしまったから。
だって彼女を長年監禁しているのは他でもない彼だから。
「…俺には宍戸しかおらへん…」
そう言って忍足は宍戸にすがりつく。
「…俺だって忍足しかいない」
そう言って宍戸は包帯を巻かれて貧血で痺れて上手く動かせない手を必死に忍足の顔に添える。
あぁ、可哀想な人。
籠の中の鳥はどちらの事だろうか。