石神 平安絵巻・二
□石神大納言伝 阿衡
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ある日の三条邸。
石神「では、『燕の詩 劉叟に示す』の前回の続きを読み下してみて下さい。」
侑紀「はい。えっと……ツバメの夫婦が一生懸命、四羽の雛に餌を運び続けて三十日が過ぎた後…の次の部分ですよね?」
石神「そうです。」
侑紀「一旦 羽翼成れば、引き上げ…にわきの枝…?」
石神「……引いて庭樹の枝に上らしむ」
侑紀「すみません…やっぱり漢籍は難しいですね。」
石神「久しぶりですから、感覚が掴みにくいのでしょう。」
侑紀(やっぱり、私が龍樹に教えるのは無理かな…)
結婚以来 久しぶりに再開した、石神の漢籍の講義。
侑紀は 忙しい石神の代わりに、自分が龍樹に漢籍を教えようと意気込んでいた。
これは、その為の準備だった。
侑紀「秀樹さん、そろそろ龍樹に学問を始めさせた方がいいですよね?」
先日、とりあえず筆に慣れさせようと、侑紀が龍樹に初めて筆・紙・墨を与えてみた時のこと。
遊び盛りの龍樹がじっとしている筈もなく…
大人たちが目を離した隙に、龍樹は部屋から消えていた。
その後結局、庭で、たまたま迷い込んできた子犬と遊んでいるところを見つけたのだが。
侑紀「あの子犬、龍樹に『ハ』の字に眉を描かれて、困った顔になってましたね。」
石神「フフッ、犬の顔に落書きとは…まったく、誰に似たのか。」
侑紀「わ、私じゃないですよ?」
石神「ちなみに、東宮様の乳母殿から聞いた話ですが…東宮様は学問に飽きて部屋を抜け出し、庭で昼寝中の太った雑色(雑用係)の額に『肉』と書いたことがあるそうですよ。」
侑紀「えぇっ!?……じゃあ、こちらの血筋、でしょうか……////」
石神「まぁ、もう少し様子を見てもいいでしょう。『先生』も まだ仕上がっていませんから。」
侑紀「はい……」
石神「…では、次。」
その時。
みどり「侑紀様〜、大変です!」
みどりが全速力で部屋に駆け込んできた。
石神「どうしました?」
みどり「あっ、石神さん!……み、帝が倒れられたと……!」
侑紀「えっ、お父様が!?」
石神「侑紀、すぐに一緒に参内しよう。…みどりさん、車を!」
みどり「はいっ!」
師弟から夫婦に戻った石神と侑紀は、内裏へと向かった。
帝が日常を過ごされる、清涼殿。
石神は 普段は その手前部分、参議以上の公卿が伺候する「殿上の間」までしか入ったことが無かった。
しかし、今日、初めて侑紀と共に奥の帝の寝所へと足を踏み入れた。
身内の人間として。
侑紀「……お父様?」
石神「帝の御加減は?」
昴「あぁ、今は落ち着いてる。命の危険は無いそうだ。」
侑紀「良かった……」
帝の枕元に居たのは昴東宮だけだった。
石神たちが駆けつける頃合いを見計らってか、隣の間で病気平癒の祈祷をしていた筈の僧たちは既に退出していた。
平泉帝「……誰か来たのか?」
昴「侑紀と石神です。」
帝「おぉ、そうか……大納言…先ほど参った左大臣にも話したが……」
昴「……………」
昴が 下を向く。
帝「私は、譲位を考えている。」
「「えっ?!」」
帝「昴は もう立派な大人だ。政には、左大臣や大納言もついている。帝位を昴に譲り、私は出家して皇后と…典侍の供養をして余生を過ごすのも悪くないと思っているのだが、ただ……」
侑紀「ただ、何ですか?」
帝「昴には まだ妃がいない。独り身では格好がつかないだろう。」
確かに、元服前の幼児の即位ならともかく……
昴「オレの妃の話なら、オレは……」
侑紀(お兄様、私が姫を産むのを待ってるんだよね…私のせいで まだ……)
石神「その お話でしたら、ご安心を。相応しい方が いらっしゃいます。」
侑紀「えぇ?!」
昴「おいっ、石神?!」
帝「そうなのか?」
石神「はい。ですが長話をしては、帝がお疲れでしょう。その話は、また後ほど。今日は これで失礼します。ごゆっくり お休み下さい。」
石神は、スッと立ち上がり、侑紀を促した。
石神「宮様は先に邸へお戻り下さい。私は東宮様と少し お話をしてから、そちらへ参ります。」
侑紀「そう…ですか…わかりました。」
石神は 帝の御前という場所と立場上、侑紀を宮様と呼び、へりくだった言い方をした。
侑紀は その点はわかっていたものの、石神の事務的な口調に、別の意図も感じていた。
━━この件は、口出し無用。
侑紀(秀樹さん…何をしようとしているの?)