*Short DreamT*

□【跡部】過ぎゆく夏と、君と僕
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 夏の終わりの昼下がり。コバルトブルーの空の端には白い入道雲が見える。緑のあふれる美しい屋敷の庭園で、跡部は紅茶を楽しみながら本を読んでいた。優美なアンティーク調の、アイアンベンチに腰掛けて足を組む。

 近くのテーブルの上には、水滴のついたグラスがふたつ。跡部と、恋人の郁のものだ。郁は跡部のすぐそばで、芝生に直接座り込んで、彼の飼い猫のセーブルを膝に乗せてかわいがっていた。小さな背中を、優しくなでさすっている。

 彼女のまわりには、セーブル用のおもちゃやぬいぐるみが転がっていた。今日はいい天気なので、セーブルにひなたぼっこをさせようと、ふたりは庭に出てきていたのだ。

 晩夏とはいえ、照りつける日差しは相変わらず強く、蒸し暑い。芝生や木々の、生気あふれる緑の匂いを感じながら、郁はセーブルをよしよしとなでる。

 日の光のもとで見るセーブルは改めて可愛らしい。大きな青い瞳は、ガラス玉のようにキラキラとしていて、漆黒の毛並みも本物のセーブルのようにつややかだ。手触りもよく、今日は石鹸のような香りさえする。そんな愛猫に向かって、郁は話しかけた。

「セーブルはキレイな毛並みだね」

「――今朝、シャンプーしてブラッシングしたばかりだからな」

 すかさず、跡部の解説が入る。飼いネコが褒められたのが嬉しいのか、妙に得意気だ。郁は跡部の方に顔を向ける。

「え、ネコって水苦手なんじゃないんですか?」

「アイツは勇敢だからな。ちゃんと克服したんだぜ。な、セーブル」

「ニャッ!」

 タイミングよく、セーブルは上機嫌で鳴いた。

「そうなんですか!?」

 郁は驚きに目を丸くすると、改めて膝の上に視線を戻した。小さな頭をわしゃわしゃとなでる。

「セーブル、えらい子だねっ!」

「ミャウ!」

「いい子、いい子!」

 セーブルはくすぐったそうに目を細める。首輪の鈴がチリンチリンと音をたてる。

すると、再び飼い主さんの横やりが入った。

「お前よりセーブルの方が根性あるぜ」

 今がチャンスとばかりに、愛しい彼女をからかい始める。

「えー! なんですかそれっ!」

「何だよ、本当のことだろ?」

 言いながら、跡部は本を置いて立ち上がった。セーブルと郁のもとに、歩み寄ろうとする。けれど、そのとき。

「――ワン! ワンッ!」

 跡部にとっては耳慣れた鳴き声。飼い犬のアフガンハウンドだ。大好きな跡部の姿を見つけて、しっぽを振りながら猛スピードで突進してくる。疾走する犬特有のハッハッという大きな息遣いと、バタバタという足音にも似た気配。

「マルガレーテ!」

 郁は驚きに目を丸くして、その大型犬の名前を呼ぶ。後方には、焦った様子でこちらに向かって駆けてくるメイドさんたち。マルガレーテは金の絹糸のような長い被毛をなびかせて、瞳を輝かせて駆けてくる。その姿はとてもかわいくて格好いい。けれど。

「あっ! セーブル!」

 さすがにこれには肝を潰したのか、セーブルは郁の腕の中から飛び出した。逃げ足も速く、あっという間に庭の向こう。

「セーブル! 待って!」

 反射的に郁は立ち上がり、愛しの子猫の後を追う。華奢で走りにくそうなサンダルで、転びそうになりながらも駆け出す。

「オイ、お前ら……!」

 マルガレーテにじゃれつかれて動けない、跡部の制止は聞かずに、郁はベビーブルーのスカートの裾をひるがえす。



 金色の陽光が降り注ぐ、蝉の声の聞こえる庭園を、郁は夢中で走る。けれど、全速力でダッシュしているセーブルにはやはり追いつけず、小さな姿が林の中に逃げ込んだところで、残念ながら見失う。心配に胸を詰まらせながらも、郁もまた、うっそうとした林に入っていく。

 それにしても、お庭にこんな場所があるなんて。跡部邸の敷地はやっぱり広い。広すぎて、困ってしまうくらいだ。

「……セーブル、どこ?」

 木漏れ日の中で、郁は大きく声を張る。しかし、返事は返ってこない。ザワザワという葉ずれのだけが、彼女の耳に空しく届く。いつの間にか、蝉の声もやんでいた。

「セーブル!」

 もう一度、今度は叫ぶように。でも、あたりは静かなまま。周囲をきょろきょろと見回しながら、郁は林の奥に向かって進んでいく。しばらく歩くと、にわかに空が暗くなってきた。いつの間にか雲が出てきたようだ。

 見上げると、先ほどまでの青天は嘘のように、空はすっかり鉛色だった。しかも、冷たい風まで吹き始めた。まぎれもなく、夕立の前触れだ。遥かで轟いた雷鳴に、郁は身体をすくませる。けれど、タイミングよく。

「――オイ、大丈夫か!?」

「景吾先輩!」

 息せききって現れた跡部に、郁は安堵の笑みを浮かべる。 大好きな跡部が来てくれた。不安な気持ちを吹き飛ばした郁は、早速跡部に訴える。

「先輩、セーブルが見つからないの!」

「落ち着けよ、どうせこのあたりにいるだろ」

 こんな状況でも、跡部はさすが冷静だ。

「首輪にマイクロチップをつけてるんだよ。だから居場所はすぐにわかる」

 そう言って、左手の中に持っていたスマートフォンの画面を、郁に差し出す。

「一応迷子対策で付けたんだが、まさかこんなに早く活用することになるとはな」

 見ると、画面の地図の上に小さな輝点が表示されていた。

「この点がセーブルですか?」

「ああそうだ。このへんにいるのは間違いねぇから、そんな泣きそうな顔すんな」

 そう言って郁を励ますと、跡部は続けた。

「だから、手分けして探すぞ」

「ハイッ!」

 口をきゅっと引き結んで、郁は再びセーブルを探し始めた。視線を下にさげ、木の足元を中心に捜索する。跡部も周囲を見回した。けれど愛猫の姿は見当たらない。

「――ッ、まさか」

 不意にあることに思い至って、跡部は眼前の背の高い木を見上げた。



「オイ、いたぞ!」

「え!?」

 焦りを含んだその声に、郁は慌てて振り向いて、跡部の視線の先を追う。

「セーブル!」

 郁は悲鳴を上げる。探し求めていた小さな姿は、遥か梢の上だった。高さにして七メートル程度、ちょうど建物の二階くらい。

「セーブル、降りてきて! もうマルガレーテいないから、戻ろう!」

 郁はセーブルに向かって呼びかける。けれど、セーブルは返事をしない。その場所でじっとしたまま、少しも動こうとしない。

「セーブル……?」

「……ちょっと待て、アイツ」

 目をこらすと、大きな耳をぴったりと伏せて、セーブルは身体をこわばらせていた。大きな青い目にはおびえの色が浮かんでいる。

「もしかして、降りられないの……?」

 呆然とした様子で、郁はポツリとつぶやいた。そのとき、近くで雷鳴が轟いて、冷たい風が吹き始めた。



 風は容赦なく強くなる。しかも、パラパラと雨まで降りだした。

「……庭師呼ぶ」

 手の中のスマホで跡部は電話をかけ始める。彼らしく、用件を端的に伝えて切った。

「セ、セーブル……っ!」

 ついに郁の瞳から涙がこぼれはじめる。そんな彼女の姿に、さすがに跡部の胸は痛む。一番辛いのはセーブルとはいえ、何だか可哀想になってくる。

「今ハシゴ呼んだから、泣くんじゃねぇよ」

 めそめそとする郁に、諭すように言い聞かせる。

「それにアイツはネコなんだから、あれくらいの高さは平気だ」

 今セーブルがいるのは、高めに見積もってもせいぜい八メートル程度。海外では十八メートルの高さから飛び降りて無事だったネコもいるくらいで、普通のネコであれば本来は、怯えるような高さではないのだ。

「でも、セーブル怖がってるもん!」

 けれど、郁は非難めいた声を上げる。確かに、その通りではあるのだが……。そのとき、びゅうと突風が吹いた。天気はいよいよ崩れてきたらしい。風に煽られて、細い枝からセーブルが落ちそうになる。

「ミャッ!!」

「セーブルっ!」

 ついに状況に耐えられなくなったのか、郁は突然サンダルを脱ぎ始めた。そのまま木の幹に取り付いて、くぼみに手をかける。

「やめろバカ!!」

 彼女の意図を瞬時に理解し、跡部は止めに入る。幹からムリヤリ引きはがす。

「やだ、助けに行く!」

「天気と自分の運動神経考えろ! お前がケガするぞ!」

 雷鳴が轟き、嵐のような風が吹き荒れるなか、不毛なケンカが始まる。跡部がなぜ木登りに反対するのか。それくらいはさすがに、能天気な彼女にもわかりそうなものなのだが。

「だって待ってられないもん! 先輩の体重じゃあ枝折れちゃうもん!」

 目に入れても痛くない愛猫のピンチに、郁は完全に平常心を失っていた。

「落ち着けよ! たった七メートルだろ。あれくらいなら、逆さに落ちたって平気だよ」

 デブ扱いされたことにムッとしながらも、跡部は彼女を落ち着かせようとする。

「海外じゃ十八メートルの高さから飛び降りて無事だったヤツもいるんだぜ」

「え?」

 また強い風がごうと吹いた。木の枝がザワザワと揺れて、セーブルの怯えた鳴き声が聞こえる。

「……っ!」

 意を決した様子で、郁はセーブルを見上げた。両手を広げて、梢に向かって大声で叫ぶ。

「セーブル、おいで! ジャンプ!」

「郁……」

 彼女の行動に、跡部は呆気にとられる。けれど、郁は必死だ。まっすぐに愛猫を見つめて、大きな声を出す。

 遠くから跡部を呼ぶ声がする。ハシゴを抱えた庭師とメイドだ。でもまだ遠い。しかし風は止まない。セーブルのいる枝もしなって、予断の許さない状況だ。自分がハシゴをとりに走るべきだろうか。跡部は逡巡する。しかし、そのとき。

「私が受け止めてあげるから、勇気出して!」

 郁の強い声の、そのすぐあと。セーブルが飛んだ。容赦ない強風に煽られながらも、彼女を目指して枝を蹴る。小さな黒いモモンガのように手足をめいっぱい広げて、空気を孕みながら風雨の中を落ちてくる。ネコまっしぐら。あっという間に距離が詰まって、セーブルは見事、郁の腕の中へ。

「きゃっ!」

 抱きとめたその瞬間、衝撃に彼女はしりもちをつく。子ネコとはいえ、約三キロの物体が建物の二階から落ちてきたのを受け止めたのだ。

「郁!」

「なんとか、キャッチ成功です」

 地面に座り込んだまま、大切な愛猫をギュッと抱えて。郁は跡部を見上げた。全身ずぶ濡れで、お気に入りのスカートや裸足の足が泥だらけになっているのもお構いなしで、誇らしげに微笑む。

 セーブルも跡部を見上げて、得意気にひと鳴きした。

「ニャッ!」



***



「ッたく、信じらんねぇぜ!」

「……ふたりとも無事だったんだから、いいじゃないですか」

 シャワーを浴びて着替えをすませてから。跡部の私室で、郁は胸元の小さなひっかきキズを消毒してもらっていた。部屋には跡部と郁のふたりだけ。セーブルは別室で、ほぼ形だけの獣医の診療を受けていた。

「良くねぇ! なんでハシゴが来るまでの数分が待てねぇんだ。ふざけんな!」

 けれど、先ほどからこんな調子でずっと跡部は怒っていた。一人と一匹の勝手が、まだ許せない様子なのだ。

「それに大体、お前が受け止める必要もないだろ! どうせ下は柔らかい地面なんだから、普通に着地させりゃ良かったんだ!」

 ぷんぷんと怒りながら、跡部は郁の胸元の小さな傷に絆創膏をぺたりと貼る。

「大げさですよぅ」

「大げさじゃねぇ! 俺様の美しい肌に痕が残ったら困るだろうが!」

「わ、私の肌なんですけど……」

「うるせぇ!」

 跡部の剣幕に、郁は肩をすくめる。自分がどうしてここまで怒られているのか、分からない。

「こんなことなら俺様が受け止めれば良かったぜ! ッたく……」

 なおも文句を言いながら、跡部は救急箱を持って立ち上がる。そのまま壁際の戸棚まで歩いていって、片付けはじめた。

 その後ろ姿が妙に小さく思えて。郁は腰掛けていたソファーから立ち上がった。そのまま跡部の背中を目指してパタパタと駆けだす。後ろからぎゅっと抱きついた。そして、ようやく思い至ったある言葉を口にする。

「……心配かけて、ごめんなさい」

 一瞬だけ目を見開くと、跡部はすぐに表情を緩めた。

「…………わかりゃいいんだよ、バーカ」

 何よりも大切な彼女に、跡部は振り返ってキスをする。
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