*Short DreamT*

□【忍足】ネコと医学書と夏休み
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 窓の外は抜けるような紺碧の空。蝉が鳴いて、大輪のヒマワリが咲いている。夏休みが始まってすぐ、高三の受験生らしく勉強道具をたくさん持って、郁は忍足のいる関西にきていた。そんなある日のこと。

 難しそうな本ばかりが並んだ書棚を、郁はじっと見つめていた。並んでいるのは医学書で、もちろん忍足の大学のテキストだ。

「先輩、本棚の本読んでみてもいいですか?」

 郁はすぐ横で新聞を読んでいる忍足に声をかけた。普段、忍足がどんなことを学んでいるのか知りたくなったのだ。

「ええけど、見たら元の場所に戻しといてな」

 新聞から目を離さずに、忍足はそう答える。アイスコーヒーを口に運びながら、バサリとページをめくる。

「はーい」

 明るく返事をして、郁は本棚に視線を戻した。

(……どれがいいかな)

 といっても、どうせ何を読んでも自分じゃよく分からないんだろうけど。けれどせめて取っつきやすそうなものをと、郁は改めて本棚をじっと見つめる。

(……あ!)

 しばらく探して、ようやくタイトルに入門と書かれたものを発見した。何も考えずに、郁はその本に手を伸ばす。しかしそれは、彼女にとっては残念なことに解剖学の入門書だった。



 短い悲鳴はすぐ横で聞こえた。忍足は驚いて郁の方を振り向く。『どしたん』と尋ねようとして、彼女が手にしている本のタイトルを見て納得した。

「……ソレ、見てしもうたん?」

 郁はこくりと頷き、本を元の場所に戻す。そういえば、自分のイトコも言っていた。『アレ電車で読んどったら、隣のオッサンにすごい顔されたわー』そのときは、彼の無神経さにツッコミを入れたんだけど。

「……ゴメンな、先に言うとけばよかったな」

 忍足は立ち上がって郁のそばまで行くと、涙目の彼女の頭をあやすようによしよしとなでた。自分にとってはあまりにも日常すぎて忘れていたけど、

 解剖途中のご遺体や臓器のカラー写真が収められているあのテキストは、スプラッタホラーマニアか医療関係者でもない限りは、ギョッとするものなんだった。

 めそめそとしている郁を宥めながら、忍足はポツリとつぶやいた。

「……郁はお医者さんにはなれへんな」

 来年の五月から始まる予定の、解剖実習に思いを馳せる。ホルマリン漬けのご遺体を半日がかりで解剖していくという、医師になるための第一関門。

 解剖の実作業だけでも、その場で嘔吐してしまう生徒も出るくらいの過酷さなのに、それに加えて、人体の各部分、骨や筋肉や臓器の名称や位置関係を覚えていかなくてはならない。

 骨と筋肉の名称だけで千個以上。まずはそれを日本語とラテン語で暗記して、そしてさらに、臓器の構造や場所を覚えていく。医学生でも色々な意味で耐えきれず、休学してしまう者も出るくらいのキツさなのだ。

「……ならないからいいもん」

 下の方から小さな声が聞こえて、すねたような表情で見上げられた。けれどまたその瞳は伏せられて、忍足のシャツがギュッと掴まれる。先ほどの衝撃映像を未だに忘れられないのか、郁はまだ落ち込んでいるようだ。

「早よ忘れて、元気出し?」

 そういえば昔から血が苦手な子だったな、なんてことを思いながら、忍足はそんな彼女の背中をさすってやる。



 そのとき、窓の外に小さな影がちらついた。ほぼ同時に誰かを呼ぶような鳴き声も。忍足は窓の方に視線をやる。自分の予想通りの丸々としたシルエットが見えた。タイミング良く来てくれた。かわいらしいお客さんの訪問に、忍足は笑みを浮かべる。

「……ちょい待ち、郁の元気が出るもん見せたるわ」

「え?」

 彼女を離して、忍足は窓に向かった。カーテンをよけて、買っておいた足ふきマットを準備して、窓を引き開ける。

「ニャ〜オ」

 野太い鳴き声とともに、入ってきたのは茶トラのネコだった。大柄でずんぐりとしている。普通のネコは体重が四〜五キロ程度というが、この子は七キロくらいはありそうだ。毛色と相まって、ミカンのようにも見える。

「え、なんで?」

 ネコを飼い始めたなんて聞いていない。郁は呆然とする。けれど忍足は得意気だ。自信満々にその茶トラの紹介をし始める。

「ウチの大学のチビ太や」

「え?」

「みんなに可愛がられとるんやで」

「ニャ〜」

 その通りやで、と言わんばかりに、ネコもタイミング良く鳴く。

「…………」

 郁の涙がようやく止まる。けれど。

「……チビじゃないです」

 ポツリとつぶやくように郁は言った。事実、そのネコはとてもデカかった。

「昔はチビだったらしいねん」

 忍足は先輩に聞いた話を受け売りする。

「ホントですか」

「信じられへんよな。今はヌシとか呼ぶヤツもおるらしいわ」

「ヌシ?」

「そう、ヌシ」

 そう言って忍足は笑う。大学のヌシたしかにぴったりくる呼び名だ。けれど、郁は不満げだ。

「もっとかわいい名前がいいです」

「なら、ミィくんはどや?」

 このネコの三つ目の名前を忍足は彼女に教えてやる。由来は有名なSTマンガ家の愛猫だ。同じトラネコだったらしい。

「ミィくん?」

「そう。ミィくん」

「ニャ〜」

 またも、そのネコはタイミング良く鳴く。

「……じゃあ、ミィくんにする」

 かわいらしい名前に納得できたのか、ようやく郁は微笑んだ。大事な彼女にやっと笑顔が戻り、忍足はホッとする。目元の涙をごしごしとぬぐって、郁はその場にしゃがみ込む。

「ミィくん、おいで!」

「ニャウ」

 返事をして、ミィくんはのそのそと郁の方に向かっていく。彼女の目の前でちょこんと座った。なでてくれと言わんばかりだ。

「よしよし」

 機嫌良く、郁はミィくんの後頭部をなでる。ミィくんも目を細めて幸せそうにしている。大学のアイドルネコだけあって、人によく馴れている。

 そんな二人のとなりに忍足も座り込む。郁のすぐ横で胡座をかいた。ミィくんはそれに気がつくと、何の前触れもなくむくりと起き上がった。

「え?」

 伸びをして、忍足の方にトコトコと向かっていく。突然の出来事に郁は唖然とする。なすすべもなくミィくんをただ見送る。ミィくんは忍足の前まで行くと、のそりと脚の上に乗っかった。そのまま胡座の中で丸くなる。

「あっ、ミィくんがすっぽり収まってる」

 郁はなぜか悔しそうな顔をする。

「先輩は脚が長いからな〜」

 彼女のそのリアクションに満足したのか、忍足は得意気だ。

「え、なにそれ!」

 一方、郁は不満気だ。まだ遊び足りないのか、ミィくんを揺すぶって起こそうとする。

「やだよ、ミィくん、私と遊ぼうよ!」

 しかし、ミィくんは動かない。郁を無視してのんびりと寛いでいる。

「ミ、ミィくんてば!」

 郁は何度もミィくんを呼ぶが、ミィくんはテコでも動かない。忍足の胡座の中がずいぶんお気に入りのようだ。瞳を閉じて、完全に寝る体勢に入っている。

「ミィくん、ミィくん起きて!」

 郁の呼びかけに、ミィくんはしっぽをひと振りする。ほっといて、ということらしい。

「ほら、ミィくんのジャマしたらアカンで、郁」

「えー!」

 ネコに構ってもらえずに、しかもドヤ顔の忍足に注意までされて、郁はへそを曲げる。唇を尖らせて、また妙なことを言い出した。

「先輩の膝の上は私の場所だもん!」

 なぜかネコにやきもちを妬きはじめた。思わず忍足は吹き出す。

「先輩の膝の上に私が座って、その上にミィくんが座るの!」

「マトリョーシカみたいやな」

 忍足はその図を想像する。愛しくも間抜けな二人と一匹。

「でも多分、ミィはお前の膝の上には収まりきらんやろ」

「う、そうかも……」

 もっともなことを指摘され、郁は落ち込む。どうしよう、とつぶやく。そんなことで真剣に悩む姿がかわいくもおかしい。忍足はまた笑みをこぼす。



 ふと壁の時計が目に入った。ちょうどお昼だ。

「じゃあ俺昼メシ作るから、お前はミィの相手しとって」

 忍足はミィくんを脚の上から下ろして立ち上がった。

「え? あ、もう十二時!」

 郁も時計を見る。そして、忍足を見上げた。

「……ミィくんのゴハンは?」

「ああ、それはな……」

 忍足は郁にキャットフードがしまってある場所を教えた。

「お皿も一緒に入れてあるから、郁はミィのゴハン用意したってな」

「ハイッ!」

 忍足に言われて、郁は喜んで準備をはじめた。キャットフードが入れてある棚に小走りで向かう。エサをもらえるのを察知したのか、ミィくんはしっぽをピンと立てて、郁のあとをトコトコとついていく。

 相変わらずしれっとした顔をしてるけど、早くゴハンが食べたいのだろうか。可愛らしい一人と一匹に忍足は微笑む。

(……カルガモの親子みたいやなぁ)

 ひと息ついて、郁に声を掛ける。

「昼メシ、そうめんでええ?」

「はいっ、大丈夫です」

 元気な返事が返ってくる。しゃがみ込んでいる彼女の横で、ミィくんはキャットフードをカリカリと食べている。



 なんだか同棲しているみたいだ。ちょっと早いけど、結婚したらこんな感じになるんだろうか。自分はお医者さんで、彼女はかわいい奥さんで。動物好きで寂しがり屋の彼女のために、ペットを飼ったりなんてしちゃったり。でも、そんな素敵な将来を実現させるためには……。

「ちゃんと勉強頑張らんとなぁ」

 国家試験はまだ先だけど。

「? どうしたんですか?」

「何でもないわ、お前もちゃんと受験勉強頑張るんやで」

 何の脈絡もなくそう言われて、郁は不思議そうな顔をする。しかし。

「ハイッ!」

 満面の笑顔で、明るい返事を忍足に返す。その素直な返答に満足した忍足は、機嫌よくキッチンに向かったのだった。
 

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