*Short DreamT*

□【忍足】ネコと医学書と夏休み
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窓の外は抜けるような紺碧の空。蝉が鳴いて、大輪のヒマワリが咲いている。
夏休みが始まってすぐ、高三の受験生らしく勉強道具をたくさん持って、
郁は忍足のいる関西にきていた。
そんなある日のこと。

難しそうな本ばかりが並んだ書棚を、郁はじっと見つめていた。
並んでいるのは医学書で、もちろん忍足の大学のテキストだ。
「先輩、本棚の本読んでみてもいいですか?」
郁はすぐ横で新聞を読んでいる忍足に声をかけた。
普段、忍足がどんなことを学んでいるのか知りたくなったのだ。
「ええけど、見たら元の場所に戻しといてな」
新聞から目を離さずに、忍足はそう答える。
アイスコーヒーを口に運びながら、バサリとページをめくる。
「はーい」
明るく返事をして、郁は本棚に視線を戻した。
(…どれがいいかな)
といっても、どうせ何を読んでも自分じゃよく分からないんだろうけど。
けれどせめて取っつきやすそうなものをと、郁は改めて本棚をじっと見つめる。
(…あ!)
しばらく探して、ようやく“入門”と書かれたものを発見した。
何も考えずに、郁はその本に手を伸ばす。
しかしそれは、彼女にとっては残念なことに“解剖学”の入門書だった。


***

短い悲鳴はすぐ横で聞こえた。忍足は驚いて郁の方を振り向く。
『どしたん』と尋ねようとして、彼女が手にしている本のタイトルを見て納得した。
「…ソレ、見てしもうたん?」
郁はこくりと頷き、本を元の場所に戻す。
そういえば、自分のイトコも言っていた。
『アレ電車で読んどったら、隣のオッサンにすごい顔されたわー』
そのときは、彼の無神経さにツッコミを入れたんだけど。
「…ゴメンな、先に言うとけばよかったな」
忍足は立ち上がって郁のそばまで行くと、涙目の彼女の頭をあやすようによしよしとなでた。
自分にとってはあまりにも日常すぎて忘れていたけど、
解剖途中のご遺体や臓器のカラー写真が収められているあのテキストは、
スプラッタホラーマニアか医療関係者でもない限りは、ギョッとするものなんだった。
メソメソとしている郁を宥めながら、忍足はポツリとつぶやいた。
「…郁はお医者さんにはなれへんな」
来年の五月から始まる予定の、解剖実習に思いを馳せる。
ホルマリン漬けのご遺体を半日がかりで解剖していくという、医師になるための第一関門。
解剖の実作業だけでも、その場で嘔吐してしまう生徒も出るくらいの過酷さなのに、
それに加えて、人体の各部分、骨や筋肉や臓器の名称や位置関係を覚えていかなくてはならない。
骨と筋肉の名称だけで千個以上。まずはそれを日本語とラテン語で暗記して、
そしてさらに、臓器の構造や場所を覚えていく。
医学生でも色々な意味で耐えきれず、休学してしまう者も出るくらいのキツさなのだ。
「…ならないからいいもん」
下の方から小さな声が聞こえて、すねたような表情で見上げられた。
けれどまたその瞳は伏せられて、忍足のシャツがギュッと掴まれる。
先ほどの衝撃映像を未だに忘れられないのか、郁はまだ落ち込んでいるようだ。
「早よ忘れて、元気出し?」
そういえば昔から血が苦手な子だったな、
なんてことを思いながら、忍足はそんな彼女の背中をさすってやる。

そのとき、窓の外に小さな影がちらついた。ほぼ同時に誰かを呼ぶような鳴き声も。
忍足は窓の方に視線をやる。自分の予想通りの丸々としたシルエットが見えた。
タイミング良く来てくれた。かわいらしいお客さんの訪問に、忍足は笑みを浮かべる。
「…ちょい待ち、郁の元気が出るもん見せたるわ」
「え?」
彼女を離して、忍足は窓に向かった。
カーテンをよけて、買っておいた足ふきマットを準備して、窓を引き開ける。
「ニャ〜オ」
野太い鳴き声とともに、入ってきたのは茶トラのネコだった。
大柄でずんぐりとしている。
普通のネコは体重が四〜五キロ程度というが、この子は七キロくらいはありそうだ。
毛色と相まって、ミカンのようにも見える。
「え、なんで?」
ネコを飼い始めたなんて聞いていない。郁は呆然とする。
けれど忍足は得意気だ。自信満々にその茶トラの紹介をし始める。
「ウチの大学のチビ太や」
「え?」
「みんなに可愛がられとるんやで」
「ニャ〜」
その通りやで、と言わんばかりに、ネコもタイミング良く鳴く。
「……」
郁の涙がようやく止まる。けれど。
「…チビじゃないです」
ポツリとつぶやくように郁は言った。事実、そのネコはとてもデカかった。
「昔はチビだったらしいねん」
忍足は先輩に聞いた話を受け売りする。
「ホントですか」
「信じられへんよな。今はヌシとか呼ぶヤツもおるらしいわ」
「ヌシ?」
「そう、ヌシ」
そう言って忍足は笑う。“大学のヌシ”たしかにぴったりくる呼び名だ。
けれど、郁は不満げだ。
「もっとかわいい名前がいいです」
「なら、ミィくんはどや?」
このネコの三つ目の名前を忍足は彼女に教えてやる。
由来は有名なSFマンガ家の愛猫だ。同じトラネコだったらしい。
「ミィくん?」
「そう。ミィくん」
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