*Short DreamT*
□【跡部】大好きなキミと、夏休み
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ジリジリと蝉の鳴く声が聞こえる。今日も日差しは強く、暑い。ブルーライトをカットする専用のメガネをかけて、跡部はずっとパソコンの画面に向かっていた。
シンプルに纏められた、まるで高級ホテルの一室のような部屋に響いているのは、滑らかなキータッチ音だけだ。自分の部屋で、跡部はレポートを作成していた。夏休みの宿題だ。
そんな跡部の後ろのソファーで、郁はクロネコのクロ……ではなくセーブルと遊びながら、跡部の課題が終わるのを待っていた。にこにこと楽しそうに、ねこじゃらしを模したおもちゃをセーブルの前で振っている。
まだ子ネコのセーブルは、それに夢中でじゃれついている。目の前でヒョコヒョコと動くフサフサを捕まえようとしては失敗し、広いソファーの上でじたばたとしている。跡部はそんな二人を放置して、ひたすらパソコンのキーを叩く。
どれくらいそうしていただろうか。手元のアイスティーの氷がカランと崩れる音を耳にして、跡部は顔を上げた。ほんの少し疲れを感じて、つい郁の方を振り向く。
ソファーに腰を下ろしたまま、彼女はセーブルを膝の上に乗せてかわいがっていた。ゴロゴロと喉を鳴らして甘えてくるセーブルの小さな額を、よしよしとなでている。ずっとねこじゃらしで遊んでいたかと思っていたのに、いつのまに。
なでられるのが嬉しいのか、セーブルはミャアとひと鳴きし、郁の手のひらに頭をぐりぐりとこすりつけた。そんなセーブルの仕草に、郁は柔らかな笑みをこぼす。
「…………」
なんとなく跡部はムッとする。待たせていたのはこちらの都合なんだけど、自分抜きで楽しそうにしている一人と一匹が小憎らしい。パソコン用のメガネをかけたまま、彼女に声をかけた。
「おいテメー、ずいぶん楽しそうじゃねーのよ」
「景吾先輩」
不機嫌な声で急に呼ばれて、郁は驚いたような顔をする。セーブルも郁に抱かれたまま、不思議そうに跡部を見る。じっと押し黙ったまま、跡部は大股で郁の方に向かう。隣にどかっと腰かけた。白い革張りのソファーがわずかに揺れる。そのまま跡部はセーブルを郁から奪い取ると、床に下ろしてしまう。
「あっ!」
「ミャッ!」
一人と一匹の抗議は無視して、そのまま上半身だけを横たえて彼女の膝の上に頭を乗せる。柔らかな太ももの感触を堪能しつつも、メガネを外して手近なサイドテーブルの上に置いた。
「疲れたから癒せよ」
セーブルにあてられたらしく、そんなことを言って跡部は郁に甘える。ぞんざいな口調はただの照れ隠しだ。それを知っている郁はくすりと笑う。大好きな跡部に甘えられるのが嬉しい。サラサラの金茶の髪をなでながら尋ねる。
「……課題、もう終わったんですか?」
「大体終わった」
「さすがですね」
「俺様だからな」
跡部らしい返しに、郁はまた笑った。彼の綺麗な髪をさっきからずっとなでたまま。けれどそんな彼女の手つきが、セーブルを可愛がっていたときと同じように思えて。
「おい、俺はネコじゃねぇぞ」
思わず跡部は文句を言っていた。さすがにペットと同列にはされたくない。
「えー」
郁はふくれっ面をする。子供っぽい仕草だけど、その可愛らしさにほだされて、つい跡部は続けていた。
「……でもまあ、お前ならいいよ」
「やったあ」
優しいそよ風が部屋のカーテンを揺らす。爽やかな夏の匂いが室内に満ちる。ふと何かを思い出したように、郁は口を開いた。
「あ、そうだ」
「何だよ」
「あのですね、今度、浴衣を買おうと思ってて」
いつかしようと思っていた相談事。今が絶好のチャンス。
「……あーん?」
「先輩はどんなのがいいですか?」
「浴衣ねぇ……」
どんなのが似合うだろう。跡部は考え込む。自分の好きな色といえば黒だけど。心の中でイメージする、愛しの彼女の艶姿。試しに、黒や濃紺の地に赤や紫の柄のものを着せてみる。これはこれでよさそうだけど。
「……夏だし、淡い色のやつがいいんじゃねーの」
以前、自分が贈った黒いワンピースのことを思い出しながら、跡部は言った。黒は持ってるとゴネられたが、その色がよくて半ばムリヤリ押しつけたのだ。しかし、その答えでは漠然としすぎている。案の定、郁に尋ねられた。
「えー、例えばどんなのがいいですか?」
淡い色といってもいろいろある。キュートな薄桃色や、清楚な水色、大人っぽいパープルなど。このあたりがよくある色味だ。
「そうだな……」
跡部はポケットから携帯を取り出す。ネットに繋げて検索する。郁も知っていてよく使う有名な通販サイトを開いた。カテゴリを選んで、ランキングを表示させる。
「……私はやっぱりピンクっぽいやつがいいんですけど」
郁は跡部のご機嫌をうかがう。彼女としてはやはりその色がいいらしい。
「あーん?」
しかし跡部は不満げだ。いかにも少女趣味なそのチョイスが気に入らない。けれど、ランキングに掲載されている品物を見て考えを改める。
(……こういうのならアリかもしれねぇな)
画面に表示されているのは、典雅な桜紋やしとやかな撫子柄。ピンクでも、こういう淡い色味なら子供っぽくなくていいかもしれない。
意外なところで、薄い水色の地に紫や濃紺のバラ柄の浴衣が健闘していた。どことなく自分の母校を思い出させる雰囲気に、跡部の食指がわずかに動く。でも、彼女には派手すぎるかも。
「……私にも見せて下さいよぉ」
上から郁の声がする。跡部は答えた。
「ダメだ」
「えー!」
「浴衣くらい買ってやるよ。だから選ばせろ」
「なんですかそれ」
「なんだよ、いいだろ別に」
文句があるのかとばかりの跡部の様子に、郁は呆れる。
「まあ別にいいですけど……」
しぶしぶと了承する。こうなった跡部には何を言っても無駄なのだ。彼女の返答を聞き届け、満足した跡部は改めて携帯を操作した。ランキングをひととおりチェックして、いいなと思ったモノのブランドと品番をメモし、画像を添付して、そのままある人物に宛ててメールする。
「よし、注文完了だ」
得意気に微笑んで、携帯をしまった。
「どんなの頼んだんですか?」
興味津々といった様子で、郁は跡部をのぞきこむ。
「届いてからのお楽しみだ」
「えー!」
しかし、その返答に目を丸くする。まさか、そんなことを言われるなんて。彼女の予想通りの反応に、跡部は笑みを深くする。そう。この顔が見たいから、自分はいつもイタズラをするのだ。そのとき床から声がした。
「ミャウ! ミャウッ!」
セーブルだ。
「どうしたの? セーブル」
郁はセーブルに話しかける。
「ミャッ!」
セーブルは元気にひと鳴きすると、ソファーにぴょんと飛び乗った。そして。ぺしっ。なぜか跡部の頭にネコパンチを繰り出した。
「ッ! 何しやがる!」
「ニャッ!」
セーブルはなぜか跡部を咎めるように鳴く。
「膝の上に乗りたいの? セーブル」
「ミャウ!」
そうだよっ、とばかりにまた鳴くと、セーブルはまた跡部にネコパンチを繰り出した。飼い猫に二度もつつかれて、跡部はさすがに起き上がる。
「テメェ、飼い主に向かって何だその態度は!」
母ネコが子ネコにするように、セーブルの首根っこを引っつかむ。
「ニャー!」
「先輩、セーブルいじめないで!」
セーブルの嫌がるような鳴き声に、郁は跡部を止めようとする。
「なんでテメェはそっちの味方するんだ! 違うだろ郁!」
「だって」
ふたりがもめている隙に、セーブルは逃げ出した。身体をひねって自分から床にポトリと落ちて、跡部の寝室に向かって、ぴゅーっと走って行く。キングサイズの広いベッドの下に逃げ込むつもりらしい。
「あっ、このクソネコ」
「せ、セーブル行っちゃった……」
小さな黒い背中を見送って、郁は悲しげな顔をする。しかし。
「テメェ俺とネコどっちが大事なんだよ!」
その発言は看過できない、跡部の容赦ない雷が落ちたのだった。
「…………」
まだ怒りがおさまらないのか、先ほどからずっと跡部は仏頂面で押し黙っている。といいつつも、その姿勢はソファーの上で膝枕。郁の太ももの上に頭を乗せて、青い瞳を固く閉じている。本当はそんなに怒ってないんじゃないかと思いつつも、郁は跡部のご機嫌を取る。
「何でそんなに怒るんですか……」
こう見えて意外と子供っぽい。恋人の自分だけが見れる、彼のかわいらしい一面。
ちょっとだけ面倒くさい気もするけど、でも、そんなところも愛しくてたまらない。あやすように、宥めるように。郁は跡部の頭を優しくなでる。そのときノックの音がした。
「……ふん、早かったじゃねーのよ」
青い瞳がゆっくりと開かれて、愉快そうに細められる。
「……どうしたんですか?」
郁の質問には答えずに、跡部は起き上がって、部屋の扉の方に向かった。ほどなくして戻って来る。その手には、
「えっ、なんでもう届いてるんですか!?」
「ウチのスタッフは仕事が早いんだよ」
白に近い淡いクリーム色の地に、ピンクのバラや紫の蝶が描かれた、ロマンチックな浴衣があった。それに合うデザインの作り帯や下駄や巾着までがセットになっていて、これだけで今すぐデートに行けそうだ。
「でも、一時間も経ってないのに」
「ちょうど百貨店に行ってる人がいたんだよ。つかそれより、早く着てみろよ」
お目当てのものを早くに手にできた喜びからか、跡部のテンションは珍しく高い。もうすっかり機嫌も直っているようだ。強引に郁に浴衣を押しつける。
「え?」
あまりにも急な展開についていけていないのか、郁は呆然とした表情で浴衣を受け取る。本当はお礼を言ったりするべきなのだろうが、残念ながらそこまで思考が追いつかない。
「着方はここに書いてある。もちろん着れるよな?」
跡部のその問いかけにも、流されるままに答えてしまう。
「まあ、作り帯ですし着れますけど……」
郁の答えに、跡部は口の端を上げた。
「よし、じゃあ脱げ」
異性に対してとんでもない発言だ。しかし恋人同士である以上、こんな台詞をぶつけても犯罪にはならない。けれど、郁は顔を赤くする。
「せっ、セクハラ! 信じらんないです!」
「あーん? セクハラじゃねーだろ、俺様なんだから」
「せ、セクハラだもん!」
浴衣を両手で抱えたまま、郁はプルプル震えだした。
「セーブル助けてー!」
跡部に背中を向けて、駆けだした。
「あッ! 待てテメ!」
同じ頃。その小柄な老人は、口元をハンカチーフで押さえて、小さなくしゃみをした。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です、失礼致しました」
心配そうに声をかけてきた店員を安心させようと、会釈を返す。ここはデパートの店内。冷房は効いているが、寒いわけではない。
「それよりも、かわいらしいお品物をありがとうございます」
そう言って穏やかに微笑んで、その執事然とした老人は、にぎやかな浴衣売り場を後にした。