*Short DreamT*

□【跡部/日吉】同じ空を見上げて
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 コンクリートの壁から跳ね返って、足元まで転がってきたテニスボールを、日吉はそっと拾い上げた。先ほどまでずっと、一人で壁打ちをしていたのだ。流れ落ちる汗をリストバンドでぬぐう。

 見上げた夏の空は、今日も青く澄んでいた。昨日もこんな綺麗な空だったなと、日吉はそんなことを思い出す。関東大会の準決勝で、自分の率いる氷帝が宿敵の青学に破ったのも、つい昨日のことだった。

 本当は今日は家でゆっくりと疲れを癒すつもりだったけど、妙に落ち着かなくて、日吉は学校の近くのストリートテニス場に来ていたのだった。

「あ、日吉くん!」

 しかし、予期せぬ声に名前を呼ばれて。わずかに身体を強ばらせる。ゆっくりと声の方を向くと、そこには。

「……結城」

 日吉のクラスメイトであり、あの俺様元部長の彼女の結城郁がいた。ぶっきらぼうに、日吉は彼女に尋ねる。

「何か用なのか。こんなところで」

「ここに来たら、テニス部の誰かに会えるかなって思って」

 日吉につっけんどんに応じられながらも、郁ははにかんだ笑みを浮かべる。

「昨日はおめでとう! 青学に勝っちゃうなんてスゴイよ!」

 心からの笑顔を向けられて、つい日吉は視線を逸らす。利き手に持ったままだった、昨日の相棒のラケットを、意味もなく見つめる

「……まだ関東だ。こんなところで浮かれてられるか」

 額面通りに受け取れば、ただのつれない台詞だろう。けれどこれは、本人も気づいていない照れ隠し。女の子に素直な感情を向けられるのは、日吉はやはり慣れないのだ。

「そんなことより、お前なんで応援に来なかったんだ」

 空気を変えたかったのか、日吉は郁に食ってかかる。応援しにいくと約束していたのに、昨日、日吉は会場で郁の姿を見つけられなかったのだ。

「行ったよ! でもコートに近づけなくて……」

「……そうか」

 しかし、そのあまりにも間抜けな理由に毒気を抜かれる。そういえば昨年もそんなことがあったと本人が言っていた。氷帝テニス部名物のコートを取り囲む二百名の応援団は、やはり今年も健在だった。

 いかに前部長の彼女とはいえ、押しの弱い郁の性格を考えれば、やはりそうなってしまうのだろうか。日吉の脳裏に、大勢のギャラリーに阻まれて泣きそうになっている彼女の姿が、無意味に鮮やかに再生される。

「でも差しいれをね、鳳くんに渡したんだよ。スポーツドリンクだったんだけど、日吉くんは飲んでくれた?」

「……は?」

 そんなこと、自分は知らない。

「え?」

 ポカンとする郁を見て、日吉の脳裏に今度は妙に黒い笑顔を浮かべた鳳の姿が浮かんだ。ハブられたことを察し、日吉は拳を硬くする。

(あのヤロウ)

 しかし、ここにいない人物に腹を立てても仕方がない。日吉は小さく息を吐くと、郁に礼を述べた。

「……いや、俺のことはいい。わざわざすまないな」

 自分は飲んでいないとはいえ、現部長としては当然のことだろう。自分は飲んでいないのだが。改まってお礼を言われたのが嬉しかったのか、郁は相好を崩した。

「また、次も何か持って行くね」

 ふんわりとした笑顔に、日吉もつられて微笑む。けれど、その時。

「あっれー? 女連れとはずいぶん余裕そうじゃん」

 出し抜けに聞こえたからかうような声に、日吉は口を引き結ぶ。

「なんでお前がこんなところにいるんだ。切原」

 都心のコートに突然現れた神奈川の学校のメンバーに、眉根を寄せた。

 隣にいる郁をかばうように、日吉は一歩前に出る。

「なんだよ、いちゃいけねぇワケ?」

 日吉に切原と呼ばれた彼は薄い笑みを浮かべながら、二人の方に近づいてきた。

「ここに来れば誰かいるかと思ったけど、まさかお前に会えるとは思わなかったぜ」

 明るくひょうきんな性格だけど、ラフプレーも未だに多い好戦的なライバルに絡まれて、日吉は心の中で焦る。自分一人ならともかく、ここには郁もいるのだ。その上……。

「ラケット貸せよ。試合しようぜ? 来週の決勝で当たる前にお前なんてブッ潰してやる」

 切原のその言葉に、郁はハッとした表情を浮かべ、不安げに日吉を見上げる。そう。切原は次の決勝で対戦するライバル校・立海大付属の部長だった。

「……断る。悪いがラケットは、今はこれ一本しかないんだ」

 利き手に握っていたそれを、日吉は切原に見せつける。

「嘘つくなよ。ベンチのタオルの下から見えてるぜ」

 一瞬だけコート脇に視線をやって、日吉は舌打ちをする。切原の言う通り、ベンチに置かれたタオルの下からわずかにのぞいているのは……。自分の予備のラケットのグリップエンドだ。

「ラケットがあったとしても遠慮するぜ。来週でいいだろ」

 けれど動揺を隠して、日吉は切原に向き直る。大事な大会の真っ最中に、問題など起こしたくはなかった。しかも決勝で対戦する学校の部長同士で、だなんてとんでもない。

「何だよ、女の前で無様に負けるのが怖いのかよ?」

 けれど赤也はよほど試合がしたいのか、あからさまに挑発してくる。

「……っ」

 腹を立てたら負け。それは理解しているけれど、日吉は思わず気色ばむ。大人にはまだなりきれず、つい感情を表に出してしまう。場に険悪な空気が流れ、自分の後ろで郁がたじろぐ気配を日吉は察知する。けれど、相手はあの切原だ。むやみに刺激するわけにもいかない。

 どうやってこの状況を切り抜けようか、日吉は懸命に思考を巡らせる。ケンカも試合も、今は断じてしたくないのだ。

(こんなとき、あの人なら……)

 無意識に日吉は考える。しかし。



「――いい加減にしろ、赤也」

 向こうから急に現れた人物に、日吉は息を詰めた。

「げっ! 柳センパイ!」

 赤也は焦った様子で、自分を呼んだ人物の方を見る。柳と呼ばれた彼は、すたすたとこちらに近寄ってくるなり、赤也のTシャツの首の後ろを掴んだ。

「……お前が今日このストリートテニス場に来て、氷帝の連中ともめ事を起こす確率百パーセント。どうやら、データに狂いはなかったようだな」

 淡々とそう言ってから、柳は日吉に向かって頭を下げる。

「日吉くん、失礼した」

「いえ……」

 まだケンカモードから抜けきれていない日吉は、急に詫びられて面食らう。下克上が信条だけど、年上に頭を下げられるのは、理由はどうあれ、やはり慣れないことなのだ。柳は顔を上げると、今度は郁を見据えて言った。

「跡部にもよろしく伝えておいてくれ、結城さん」

 穏やかだけど含みのある彼らしい笑顔に、郁は露骨にうろたえる。

「……っ!」

 ほぼ初対面の柳に、跡部とのことを指摘されるなんて、夢にも思っていなかったのだ。

「は、はい……」

 かろうじて、郁はそう返事をする。

「……え、どういうことっスか? 柳センパイ」

 二人のやりとりを聞きとがめ、赤也は不思議そうに柳を見上げた。

「なんだ、知らなかったのか? 彼女は……」

 赤也に説明しようとする柳を、郁はあわてて止める。

「ちょっ、ちょっと待って下さい! あのっ!」

 しかし柳は平然と言ってのけた。

「隠すこともないだろう。もう有名な話だ」

 顔を赤くする郁を見て、赤也は事情を察した。

「へぇ。なぁんだ、アイツ日吉じゃなくて跡部さんの」

 薄く笑って、値踏みするような視線を郁に送る。怯んだ郁は、無言で俯く。

「……赤也、やめないか」

 相変わらず失礼な後輩にもう一度注意をしてから、柳は赤也の襟首を掴んだまま、改めて郁と日吉に一礼した。

「今日はこれで失礼するよ。また来週会場で会おう。氷帝のお二人さん」

 そう言って、柳は赤也を引きずって去ってゆく。



 あっという間の出来事に、日吉と郁は呆然とする。しかし、こんなところでいつまでも立ちつくしていても仕方がない。先に我に返った日吉は、郁を振り返って尋ねた。

「……おい、平気か?」

「…………う、うん」

 郁はこくりと頷く。

「――日吉! 郁ちゃん! 大丈夫!?」

 そのとき、自分たちを呼ぶ声がして、二人は振り返った。

「鳳くん!」

 郁は目を丸くして、日吉は嫌そうな顔をする。

「鳳、お前いたんなら……」

「ゴメンゴメン。でも柳さんが止めてくれたからいいかなって思って」

 しかし、鳳は爽やかな笑顔で日吉の嫌味をかわすと、郁に向かって微笑みかけた。差し入れのお礼を言って「また応援に来てよ」などと、ナチュラルにナンパまがいのことをし始める。

 手持ちぶさたになってしまった日吉は、鳳と郁の会話に黙って耳を傾ける。姉もいる鳳は、さすが女子に慣れている。変に格好つけることもなく、自分と違って自然体で接している。郁もそんな鳳とは話しやすいのか、柔らかな表情で、落ち着いて受け答えをしている。

 自分には見せたことのない彼女の表情に、鳳の人好きのする愛想の良さを、日吉は初めて羨ましく思った。



 神奈川へと戻る電車の中で。目の前で腕を組んで座る柳に、赤也は話を振る。

「……あの女、てっきり日吉と付き合ってるのかと思ってましたよ。でも跡部さんとだったなんて、すげー意外っス」

 ひとつのつり革を両手で握って、悪ガキ然とした笑みを浮かべる赤也に、柳は大きなため息をついた。中身までもが子供な後輩の面倒を見るのは、ほんとうにくたびれる。

「全く、お前の目は節穴だな」

「なんでですか!? だって、アイツめっちゃ意識してたじゃないですか!」

「そりゃあ意識はするだろう。なにせあの跡部の相手なんだからな」

「…………」

 柳のその言葉に、赤也は黙り込む。

「子供によくある勘違いだ。はしかのようなものだな。そのうち治るだろう」

 赤也に追い打ちをかけるように、柳は続ける。データを取るために、めぼしいライバル校の選手のことはずっと観察していた。それこそ中学の頃から五年以上、日吉のことも見ていたことになる。

「……そういうもんなんですかねぇ」

 けれど、未だに納得していない様子の赤也に、柳はまた息を吐く。

「……全く、今のお前は日吉以下だな」

 呆れたようにつぶやいて、柳はこの五年間の日吉の姿を目蓋の裏に蘇らせた。自分の知る日吉は、いつだってあのカリスマの背中だけを、焦がれるような目で見つめていた。この五年、日吉にとって一番大切だったのは、いつだってあの彼と、彼を超えることだったのだ。

 その彼が選んだ人を意識してしまうのも、日吉自身の性格とこれまでの経緯を思えば、充分に理解できることだった。長い前髪からのぞく切なげに細められた瞳を、しかし柳はかぶりをふって追い払う。現実に戻って、柳は目の前の後輩を座ったまま見上げる。

「そんなことよりも、大事な決勝の直前にもめごとを起こすんじゃない。部長のお前がこんな調子では、今年は先が思いやられるよ」

 我ながら年寄り臭いと自嘲しながら、柳はそんな小言を口にする。



 重いテニスバッグを肩に掛けて、日吉は駅までの道のりを歩いていた。いつもは不快なだけだった都心の喧噪も、今はなぜか心地いい。家にいようかとも思ったけど、今日はここまで出てきて本当に良かった。

 立海の切原が出てきたときは焦ったけど、鳳とも久しぶりにゆっくり話せたし、

それに何より、郁から跡部の近況が聞けたことが収穫だった。日吉はひとり茜色に染まった空を見上げる。あの人も遠い異国の地から、同じ空を見ているのだろうか。無意識に名前を呼んでいた。

「跡部さん……」

 日吉のはしかが治るのは、それからしばらく経ってからのことだった。
 

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