*Short DreamT*
□【忍足/一族】君とまたテニスを
1ページ/3ページ
石畳の美しいプロムナード。それは二人が通う大学の名前が冠された長い坂道だ。路傍には青いアジサイが綺麗に咲いている。
「なぁええやろユーシ! ホラこの通り! ホンマに一生のお願いっちゅー話や」
「……しつこいで、ケンヤ」
衣替えも終わった梅雨のある日。大学の授業を終えて早々に帰路についていた忍足は、イトコの謙也に絡まれていた。
「前にも言うたやろ。テニスはもうやらん。高校まででオシマイや」
「そんな固いこと言わんと、な? インハイ準優勝のお前さえ来てくれれば、ウチのテニス部の全医体連覇は間違いなしやで! 今度は俺とお前で医学部テニス界のてっぺん狙おうや!」
全医体とは全日本医科学生体育大会王座決定戦の略称で、日本全国の医学部の運動部が参加する、医学生スポーツ界では最も重要な大会だ。話の内容からいって、どうやら忍足は自分のイトコに、大学のサークルに勧誘されているようなのだが……。
「うっさいわ! そんなてっぺん興味あらへんわ。とにかく俺はもうテニスはやらんのや。わかったらどっかいけ! うっとおしい」
大学の最寄り駅まで続く長い坂道を、半ば駆け下りるようにしながら、忍足は妙に必死に自分のイトコを追い払おうとする。
「そんなてっぺん、て失礼なこと言うなや! 大体俺かて家コッチなんやから仕方あらへんやろ。ガキみたいなこと言うな」
「…………」
しかし、張り合うようにまとわりつかれながら、もっともな反論をされてしまい、忍足は閉口する。今日がなんでもない日なら、一緒に帰るくらい別にいいんだけど……。
実は今日、忍足には大事な予定があったのだ。だから何としてでも、ここで謙也を追い払わなくてはならない。なんとか彼を撒こうと忍足は策を巡らすが、次の瞬間の謙也のセリフに息を詰めた。
「おッ! 郁ちゃん!」
「……ッ!」
なんたる不覚。現在遠距離恋愛中の愛しの彼女を、イトコに先に見つけられてしまい、忍足は悔しさに唇を噛む。不毛な口ゲンカにエキサイトしていたら、いつの間にか坂道を下りきって、大学の最寄り駅のところまできてしまっていた。
左腕の時計を見る。いつの間にかその針は、彼女との待ち合わせ時間ちょうどを指していた。さっきまで青かった空も、既に薄暮れのオレンジに染まっている。
「お久しぶりです、謙也先輩。 ……侑士先輩も」
旅行用のボストンバッグを肩にかけた郁は、二人に向かって微笑みかけた。そのふんわりとした笑顔に、忍足の胸は高鳴る。標準語が、この関西の地ではとても新鮮に聞こえる。
一ヶ月ぶりに見る彼女は相変わらず可愛くて、真っ白なワンピースもすごく似合っていて、本当はすぐにでも抱きしめたいくらいなんだけど、うっとおしい邪魔者がいるせいで、忍足のその願いは叶わない。
「郁ちゃん! 長旅お疲れさん!」
しかしその邪魔者は遠慮なく、忍足の郁に絡んだ。彼女の両肩をがしっと掴んで、さっきまでのやりとりを告げ口する。
「聞いたってくれや〜 ユーシがホンマわがままなんやで〜 もうテニスなんやらん言うてな、俺ンこと困らせるんや!」
「え?」
謙也のその言葉に、郁は戸惑った表情を浮かべ、忍足に助けを求めるような視線を送る。立ち位置的にも性格的にも、どちらの味方もしづらいのだ。
「ケンヤ、郁に気安くさわんなや」
彼女の視線を受けて、忍足は不機嫌さを隠そうともせずに、謙也に文句を付ける。
「ええやん別に。とって食うんちゃうし。な、郁ちゃん」
しかし、謙也はあっけらかんと郁に笑いかける。
「え、でも、あの」
まさに関西ノリの気さくな謙也に、郁はやはり困った様子で忍足を見つめる。
「郁、こんなアホの相手せんでええで。時間のムダや」
謙也と郁の間にようやく出来た隙を見逃さず、忍足は二人の間に割り込んで彼女の手を取った。
「……とにかく、お前に何て言われようが俺はもうテニスはやらんのや。わかったら、邪魔者はどっかいけや」
そして、さりげなく彼女の旅行カバンを持ってやりながら、忍足は露骨に自分のイトコを追い出しにかかる。これ以上つきまとわれてはたまらない。
「しゃーないなあ。ほな、郁ちゃんまたな」
しかし一応気を遣ってくれたのか、謙也はあっさりと引き下がった。郁にだけ手を振って、賑やかな休前日の学生街に消えていく。郁は律儀に手を振り返すが、無言で謙也の背中を見送る忍足は、やはり機嫌が悪そうだった。
***
「ゴールデンウィーク以来やね。みんな元気しとる?」
ソファーに腰掛けてお茶を飲みながら、忍足は郁に友人たちの近況を尋ねる。ここは忍足の部屋だ。駅からも大学からもほど近い、東京時代と同じような小綺麗なマンションで、家具も内装もほとんど変わっていないのだが、壁際の本棚の中身は、大学入試の参考書から医学書になっていた。
「はい、元気ですよ」
忍足の質問に、郁は明るく答える。
「この間の都大会で、青学に勝って……」
やはり二人の話題に上るのは、氷帝のテニス部みんなの話だ。
「ああ、日吉に聞いたで。今年は……」
後輩の活躍に、忍足は嬉しそうに微笑む。殊更に愛校心を誇示するようなタイプではないけど、でもそれがないわけではない。
忍足のその笑顔に、郁は少しだけ悲しい気持ちになる。蘇るのは「テニスなんてもうしない」と言ったときの忍足だ。勇気を出して、郁は忍足に問いかけた。
「……侑士先輩。テニス、やっぱりもうしないんですか?」
彼女らしくない立ち入った質問に、忍足はわずかに目を見開くが、その問いかけには答えずに、黙ったまま彼女から視線を逸らす。
「……変なこと聞いてすみません。でも、なんだかもったいないような気がして」
中学の頃からずっと取り組んでいて、高校二年と三年の時はインターハイで準優勝。勝ちきれなかったのは残念だけど、それでもすごい成績だ。しかし、忍足はどこか気まずそうに笑う。
「……んーまあなぁ。でも、やっぱアイツら以外とは、なんかやる気せぇへんねん」
改まって忍足にそう言われて、アイスブルーのジャージを翻す、絶対的なカリスマとチームメイトたちの姿を、郁は脳裏に蘇らせる。それは彼女にとっても、きっと一生忘れることのできない大切な思い出だ。
「…………」
郁もまた黙り込む。まぶしすぎる思い出に思わず涙腺が緩んでしまう。
「……それに、ただでさえ勉強とかせなアカンのに、テニスまでしとったら、お前と遊ぶ時間減るやろ?」
しかし、あからさまに落ち込む郁を励ますように、忍足はあえて脳天気な言葉を口にした。そして、強引に話題を変える。
「そんなことより、今日の晩メシ何がええ?」
けれど、忍足のその気遣いに郁はまた、何だか釈然としないような、憂鬱な気持ちに囚われたのだった。
『……やっぱり私も寂しいっていうか、もったいない気がするんです』
『せやろ? 俺もそう思うてずっと誘っててん』
侑士がキッチンに立っている間、郁はこっそりと謙也とメールのやり取りをしていた。ソファーの上で体育座りをしながら、カチカチと携帯のボタンを押す。
しかし、メールといっても謙也のレスはとても速く、送信して一分以内に返事がくるからほとんどチャットだ。浪速のスピードスターはこんなところまで速いのだ。
『中高のチームに思い入れあるんは分かるんやけど、だからって大学はテニスやらんゆうんも、俺は違う思うんやけどな』
なぜか文末にヒヨコの絵文字がついている、真面目なメールを読みながら、郁は謙也の高校時代に思いを馳せた。関西でも有名なインハイ上位の強豪校で、詳しく知っているわけではないけど、氷帝とはまた違った良さの、魅力的なチームだったと聞いたことがある。
そして今、謙也は新しいチームで、大学一回生ながら、部の中心メンバーとして頑張っているという。
「…………」
謙也のメールを見返しながら、郁は再び考え込む。
(このまま辞めちゃっていいのかな……。せっかくテニス部強い大学なのに……)
以前案内してもらった、キャンパスのテニスコートはすごく立派で、忍足の選んだ大学らしくて、何だか嬉しく思ったのに……。
(……こんなときって、どうしたらいいんだろう)
郁が小さなため息をついたその時、キッチンから忍足の声が聞こえてきた。
「郁〜 出来たで〜」
「あっ、ハイっ!」
慌てて返事をして、郁は携帯を鞄にしまって、忍足のもとに向かった。しかし。
「……ずっと携帯いじっとったみたいやけど、誰かとメールでもしとったん?」
キッチンに入った瞬間、出し抜けにそう尋ねられて、郁はびくりと肩を震わせる。
「ち、違いますよ。ちょっとゲームにハマってて……」
まさか謙也とメールしていたとは言えず、郁はとっさに嘘をついた。ずっとキッチンにいたと思っていたのに、いつ見られてたんだろう。テーブルの上の美味しそうなパスタに気を取られつつも、郁は忍足の鋭さに舌を巻く。
「そうなん?」
けれど忍足は、あからさまに不自然な郁のリアクションはスルーして、翌日の予定を彼女に尋ねた。
「明日はどないする? 何かしたいことがあれば、何でも言うて?」
忍足のその言葉に、郁は勇気を振り絞る。結果として騙すことになるのは気が引けたが、それ以上に、このまま何もせずに終わってしまうのがイヤだったのだ。
「あ、あのね……」
***
梅雨の晴れ間の朝の空気はとてもすがすがしい。けれど、そのさわやかな空気を味わうことは、今の忍足には不可能だった。
「いざ尋常に勝負やユーシ! 俺が勝ったら、ウチのテニス部に入ってもらうで!」
近所のテニスコートで彼女にテニスを教えるハズが、そこにはなぜか仁王立ちのイトコがいた。ラケットをビシッと突きつけられて、忍足は軽いめまいを覚える。
「……郁」
眉間にシワを寄せ、忍足は自分をたばかった愛しの彼女を見下ろした。
「……ごめんなさい」
しかし、悪いことをした自覚はあるのか、郁は素直に謝る。
「でも、こんな嘘でもつかなきゃ、先輩きてくれそうになかったから……」
忍足は黙り込む。それは確かにその通りだった。イトコが待ち構えていると分かっていたら、誰に何と言われようと、自分は絶対にここには来なかっただろう。仕方がないといった表情で、忍足は改めて郁に言い含める。
「……ウチの医学部のテニス部、練習けっこうキツイんやで。前にも言うたやろ?」
昨年の全医体では優勝している。医学生限定のサークルと言いつつも、かなりの練習量をこなさなければならない。そんなに甘い世界ではないのだ。
「一緒におれる時間減るよ。お前はそれでもええん?」
「……それでもいいです」
厳しいことを言われて、それでも郁は口を引き結んで、忍足を見つめ返す。
「…………」
彼女のまっすぐな視線に、しかし、忍足は何も言わずに瞳を逸らす。忍足の目にほんの一瞬だけ、迷いとためらいの色が浮かぶ。
「――いつまで待たせんのや、とっととコート入れ! ユーシ!」
けれど、何よりも待つのがキライな、スピードスターの鋭い声が飛んだ。これ以上、現状を引っ張るのは難しいと判断した忍足は、やむを得ずラケットを片手にコートに向かう。
未だに迷いは捨てきれないが、せっかくの機会だ。ここで叩きのめして、もう誘うなと言ってやるのもアリだろう。そして試合が始まった。
辛くも勝利を収めた彼は、額の汗をぬぐうと自分のイトコを怒鳴りつけた。
「……ちっとも嬉しくないわ。手ェ抜いたやろ、お前」
勝ったのは謙也の方だった。スコアは6-4。いい試合だったはずなのだが、しかし勝った彼の方はそうは思ってはいないようだ。
「郁のためや。アイツが言うから」
コートの外でなりゆきを心配そうに見守る彼女に視線をやって、忍足は自分のイトコを睨み返す。長い黒髪の先から、玉のような汗がポタリと落ちる。謙也もまた、肩で息をしながら郁に一瞬だけ視線を投げると、改めて口を開いた。
「……人のせいにするなん、お前らしくないんとちゃう?」
ズケズケとそんなことを言い放つ。けれど忍足は、その無遠慮な言葉に口の端を上げた。
「お前らのことは騙せへんな」
汗をぬぐって顔を上げる。
「……やっぱ俺、テニス大好きみたいやわ」
まるで今日の天気のような、すがすがしい笑顔でそんな言葉を口にして。忍足は、お節介なイトコと心配性のカノジョに、心の中で感謝した。