*Short DreamT*
□【跡部/日吉】抱きしめちゃいけない
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「……クソっ、鳳のヤツ」
そんなことを毒づきながら、日吉は白い息を吐く。二月の終わりの、部活のない水曜日の帰り道。頼まれたプリントの入った封筒をカバンに突っ込んで、まだ明るい住宅街を歩く。建て売りだろうと思われる、小綺麗だけど無個性な一軒家ばかりが立ち並ぶ、ここは日吉の家の近くではなく、郁の家の近所だった。
郁というのは……。結城郁。日吉と同じ氷帝学園の二年生で、なんとあの俺様元部長の現彼女。そして今回の日吉のミッションは、その郁の家までプリントを届けに行くことだった。学校を休んだ彼女にどうしても今日届けてあげてくれと、部活の仲間にお使い役を押しつけられてしまったのだ。
「……信じられねぇ、何なんだあの黒い笑顔は」
しかし、文句を言いながら歩いていたら、もう目的地に着いてしまった。表札の名字を確認してから門扉を開けて、やや緊張しながらも、日吉はドア前まで行ってインターホンを押す。
『……ハイ、結城です』
意外にも、返事はすぐに返ってきた。声の感じから本人のようだが念のため、日吉は丁寧に名乗って用件を告げる。
「氷帝学園の日吉です。郁さんにお届け物なんですけれど」
『日吉くん』
インターホンの相手がうれしそうな声を出す。本人だ。安心して、日吉は言葉を崩す。
「プリント持ってきてやったぞ。早く開けろ」
『ありがとう、ちょっと待ってて』
少しだけ待たされて、目の前のドアが開いた。
「わ、ホントに日吉くんだ」
制服にコート姿の日吉を見つめて、郁は顔をほころばせる。具合が悪くて休んでいたのだから、当然といえばそうなのだが、彼女は部屋着姿だった。女子の間で流行っているらしい、パステルカラーのフワフワしたワンピースで、ゆったりとしたデザインなんだけど、Vネックの胸元は意外と広く開いていた。
見たことのない部屋着姿と、彼女の嬉しそうな笑顔に、日吉はわずかに動揺する。しかし、そんなことを気取られるわけにはいかない。努めて無愛想な表情を作って、日吉は鞄から封筒を取り出した。押しつけるように、乱暴に手渡す。
「ほら、プリントだ。確かに渡したからな」
「ありがとう。わざわざごめんね」
しかし、そんな日吉に対しても郁は丁寧にお礼を言う。日吉と同じく、意外と礼儀正しいのだ。けれど、そんな彼女に日吉は違和感を覚える。顔色が妙に青白い気がするのだ。貧血で休んだらしいが、まだ具合は悪いのだろうか。
「……おい、まだ調子悪いのかよ」
「え? 薬飲んだし、もう元気だよ」
日吉の質問に郁は笑って答えるが、やはりいつもよりテンションは低めだ。
微笑みにも力がないように感じる。けれど、本人が平気と言っているのに、無理に追求するのも日吉にはためらわれた。
「……ならいいんだけどな」
そうとだけ答えて視線を外す。
ふと、日吉はあることに気がついた。家族と住んでいるであろう一軒家なのに、ひとけが全くないのだ。以前聞いた噂話が蘇る。確か、彼女の両親は仕事の都合で海外に……。ムクムクと、イタズラ心が芽生えてくる。わざわざココまで来てやったんだ。せっかくだし元を取りたい。
「……それだけなのか?」
口の端をわずかに上げて、挑発的に問いかける。
「え?」
「わざわざ家まで届けてやったのに、お前はありがとうの一言だけなのかよ?」
「……日吉くん?」
郁の瞳が、戸惑いに揺れる。その反応に、日吉のテンションはさらに上がる。そうこなくては面白くない。あっけらかんとOKされても、自分にとっては興ざめなのだ。
「茶くらい出せよ、気のきかないヤツだな」
ドアを乱暴に引き開けて、日吉はずかずかと彼女の家に上がり込んだ。
「――ふーん、案外マトモな部屋じゃないか」
「……ちょ、ちょっと日吉くんッ!」
明らかに困った様子の郁には構わず、日吉はぐるりと部屋を見回した。建物の外観通りの、モデルルームのようなリビングだ。片付いてはいるけど、個性を主張するようなものはほとんど無いように見える。
「ぬいぐるみとか、山ほど置いてあるのかと思ってたぞ」
勝手に予想していたイメージを、日吉は何の考えもなく口にする。
「何それ!」
郁は怒ったような声を上げる。偏見でものを言われたのが、気に障ったのだろうか。しかし、日吉にとってはむしろ嬉しい反応だった。これでこそ、意地悪のし甲斐があるというものだろう。小馬鹿にしたような笑みをあえて作って、彼女に向ける。
「お前、そういうの好きそうじゃないか」
「……すっ、好きだけどリビングにまで置いたりしないよ!」
好きなのは認めるのか。予想とは少しズレた、しかし充分にツッコミどころのある答えを聞き、日吉は満足そうに微笑んだ。
「……そうか、自分の部屋はぬいぐるみだらけなんだな」
「ち、違うよ! そんなに置いてなんかないし!」
「まぁ、どうでもいいけどな」
会話をムリヤリ打ち切って、日吉はコートを脱いだ。制服のブレザーも脱いで、近くのソファーに投げ置いて、自分も腰を下ろす。
「オイ、早く茶の支度をしろよ」
手持ちぶさたに突っ立っている彼女に、上から目線で指示を出す。
「えー! 本当に!?」
「本当に決まってるだろ、バカかお前は」
そう言って見上げると、郁は思い切り不満そうな顔をした。しかし、すぐに何かを諦めたように息を吐くと、
「……じゃあ、紅茶でいい?」
「はぁ!?」
郁の問いかけに、日吉は素っ頓狂な声を上げる。
「なんで紅茶になるんだ、こういうときは普通緑茶だろ!」
勢いに任せて、日吉は郁をどやしつける。純和風の日吉家では飲み物といえば緑茶一択で、それ以外なんて選択の俎上にすらのぼらないのだ。しかし、それを郁が知るはずはないのだが……。
「……っ! わかったよ!」
けれど、口論も無意味と思ったのか、彼女はそう言い残して台所に行ってしまった。
リビングに残された日吉は、改めて室内を見渡した。
「……ちっ、つまんねぇな」
がっかりしたような口ぶりで、小さく舌打ちをする。郁の私室ではないせいか、彼女らしいものがひとつもないのだ。変な少女マンガやぬいぐるみがあれば、それをネタにからかおうと思っていたのに。日吉は落胆するが。
「……何だあれ」
壁際の棚の中に妙な本が置かれているのを見つけて、思わず声を漏らす。その本だけやたらに豪華な装丁で、場違い感があふれているのだ。目を凝らせば、それはハムレットの原書だった。いかめしい背表紙に著者名とタイトルが英字で箔押しされている。
彼女に読めるのだろうか。ふと疑問に思う。しかし自分には関係のないことと、その考えを追い払う。それよりも、もっと面白そうなモノはないかと、日吉は視線を巡らせる。
今度はテーブルの上に無造作に置かれていた、ファッション誌に目がとまった。
表紙の派手なモデルは自分好みではなかったけれど、ドッグイヤーが気になって、日吉はそれを手に取った。
折り曲げられていたのは、お部屋デート特集という記事のページだった。彼女が着ている部屋着の色違いを、テレビでも見かける人気アイドルが着ていて、彼氏役のメンズモデルに甘えた視線を送っている。
「…………」
自分はこういう雑誌は買わない。もちろん兄もだ。男兄弟育ちだからか、新鮮に感じる。今まで意識したことはなかったけど、彼女もこういうことに憧れる女の子なんだろうか。しかし、彼氏役の男子モデルがなんとなく、日吉にとっての目の上のタンコブにそっくりで、彼はボソリとつぶやいた。
「……何なんだよ。この泣きボクロは」
なぜかイラッとした。どうしてなんだろう。そのとき、台所から物を落としたような音が聞こえた。
雑誌を持ったまま台所に行く。しかし、その光景を目にした瞬間、日吉はこめかみに手を当てていた。
「……何やってんだお前」
客を待たせて大掃除とは、一体どういう了見なんだろう。
「緑茶のお茶っ葉、探してたの」
気まずそうに、郁はそう答える。
「でも見つかったから、大丈夫だよ」
一体何が大丈夫なのか。
「……緑茶がすぐに出てこないって、普段何飲んで生活してるんだお前」
それ以外はありえない、生粋の緑茶派の日吉にとってはある意味当然の疑問だ。少しだけ戸惑った表情を浮かべると、郁は答えた。
「……私、紅茶派だもん」
「…………そうかよ」
ふと日吉はダイニングテーブルの上に転がっている、紅茶の缶に気がついた。こちらも英語だけしか書かれていない、なにやら高級そうなパッケージだ。かろうじてダージリンと書かれているのだけは読み取れる。
その外装になぜか見覚えがあるような気がして、日吉はまた小さな違和感を覚える。どこで見たんだろう? ぼんやりとそんなことを考える。けれど、唐突な彼女の声に、日吉はこちらの世界に引き戻された。
「あっ! もー勝手に見ないでよっ!」
日吉の手に雑誌があるのを見つけて、郁はまたぷりぷりと怒り出す。
「別にいいだろ、暇だったんだよ」
しかし、どうでもよさそうにそう答えて、意味もなく日吉は雑誌をパラパラとめくった。彼にとっては下らないことしか書いていない、脳天気な紙面を流し見ながら、気になったことを質問する。
「……そのワンピース、雑誌に載ってたから買ったのか?」
「そうだよっ!」
急に表情を輝かせて、郁はそう答えた。意識せず、日吉にくっついて雑誌のページを繰る。
「――ちゃんが着てたやつ、かわいかったから……」
突然パーソナルスペースに侵入されて、鼓動が跳ねる。しかしそんな自分の動揺にも、雑誌に夢中の彼女は気づいてはいないようだ。バカで良かったと、日吉は安堵する。
「えっとね、先週の金曜日に――で買ったんだよ。そしたらね、店員さんが……」
例の記事に視線を落としたまま、楽しそうに、郁は聞かれてもいないことを話し続ける。自分にとっては興味のない話題で、彼女の話をムリヤリ打ち切ってもよかったのだが、幸せそうに話す姿をもっと見ていたくて、日吉は黙って彼女の話に耳を傾けた。鉄琴を叩いたような声が心地いい。
ふと、彼女が髪を揺らしたときに、ふわりと爽やかな香りが届いた。シャンプーなんだろうか。斜め上から彼女を見下ろす。長い睫毛が、薄い肌に影を落とす。評判通りの整った容姿だ。以前触れたことのあるサラサラとした綺麗な髪に、無意識に手を伸ばしそうになって、ハッと我に返り、日吉は拳を握りしめた。
半径五十センチ以内。触れようと思えば触れられる。部屋には自分と彼女のふたりだけ。だけど、それがどうしたっていうんだ? 雑誌の誌面を見ようとしたのに、なぜか胸元に目が行ってしまう。自分にはない柔らかそうな膨らみと、それを覆うレースが見えて、思わず目を逸らす。
イライラする。本当にバカなんじゃないのかコイツは。自分以外の男にも、こんな無警戒な対応をしているのだろうか。無理やり押し入った自分を棚に上げ、日吉は内心で郁をなじる。
「――は売り切れだけど、水色と白ならありますよって……って、日吉くん聞いてる?」
「……別に興味ない」
「えー!」
「つか、お湯そろそろ沸いたんじゃないのか」
ふたりの前の電気ケトルからは、いつの間にかコポコポという音が聞こえていた。
「あ!」
話に夢中だった彼女は、そんなことにすら気づいていないようだった。
「ったく、お茶一杯にこんなに待たされるなんて思わなかったぞ」
「……ごめんなさい」
リビングに場所を移して、ふたりはソファーに腰掛けていた。といっても、
隣同士ではなくテーブルを挟んで向かい合ってだ。
「しかも、お茶うけがフィナンシェとはな」
呆れたような表情で、日吉は机上に視線を送る。
「……和菓子なかったんだもん、しょうがないじゃんっ!」
「まぁ、別にいいけどな」
洋菓子が嫌いなわけではない。日吉は遠慮無くフィナンシェに手を伸ばす。封を切って口の中に放り込んだら、繊細な優しい甘さが広がった。無駄に甘ったるいばかりの量産品とは明らかに違う味に驚く。一体どこのものなんだろう。……けれどこの味もなんだか知っているような気がして、日吉はまた違和感を覚えた。
「…………っ!」
しばらく考えてようやく、日吉は今までずっと感じていた違和感の正体に気がついた。確かこれは、あの人の家に行ったときに出されたものだ。ヨーロッパの邸宅みたいなお屋敷で、温かなダージリンと一緒に出されて……。
『――俺様は紅茶派なんだよ』
あの紅茶缶も、たしか生徒会室に置かれていたはず。彼女の家に上がり込んだときから、感じていたひっかかりの全てが氷解していく。あのシェイクスピアだって、彼女の私物なわけがなかったのだ。ぬいぐるみなんて幼い子供のような趣味も、あの彼なら許すはずはない。
心の中にずっとあった高揚感が、ウソのように冷めていく。そのかわりに、なぜかムカムカとした気持ちが沸いてきた。その理由はわからない。わかりたくもない。気がつくと、日吉は鞄の中をあさっていた。
「……どうしたの? 日吉君」
郁の質問は無視して、奥の方に埋もれていたものを取り出す。正面の彼女に向かって、ぶつけるようにぽいと投げた。驚いたような声を上げて、郁はそれをキャッチする。
「……なめこのぬいぐるみ?」
不思議そうにつぶやいて、彼女は投げ渡されたものと日吉を交互に見つめる。
意図をはかりかねているようだ。
「いらないから、それやるよ」
心底どうでもよさそうに、日吉は郁にそう言った。
「いいの? すごく流行ってるのに」
「俺はそんなの、興味ないからな」
「ありがとう! 嬉しい!」
ひどいことしか言っていないのに、本当に幸せそうに微笑まれて、優越感を覚える。
もしあの人がここに来て、自分が残した痕跡を見つけたら、一体どんな顔をするだろう。平然としているかもしれないけど、もしかしたら焼きもちくらい妬くかもしれない。そうなればザマアミロだ。……心の奥の想いには気づかず、日吉はにやりと笑って言った。
「……せいぜい大事にしろよ、バーカ」