*Short DreamT*
□【跡部】春のあしおと
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「これかわいいです!」
ネコのキャラクターがデザインされた、ピンクのペンケースを手に取って、郁は機嫌良く笑う。おなじみの頭にリボンをつけた白い子ネコが、たくさんのハートマークに囲まれて、薄ピンクの背景の中にちょこんと座っている。エナメルのつやつやした素材で汚れにくそうなのだが、少しだけ値段はお高めだ。
そんな彼女のチョイスに、しかし跡部はあからさまに嫌そうな顔をする。
「やめとけよ、ガキくせぇな」
「えー!」
「つか、なんでペンケースにネコがいるんだよ。いらねえだろネコ。うっとおしい」
「いいじゃないですか。ネコかわいいじゃないですか!」
「却下だ。ガキじゃねぇんだからよぉ」
そう言って、跡部は彼女の手からペンケースを奪い取り、売り場に戻した。
「あ!」
「あ、じゃねえよ。どうせならネコいないやつ買え、ホラ」
そして、似たようなサイズのペン入れで、何の絵もついていないシンプルなものを、彼女に持たせる。同じエナメル素材だけど、真っ黒で英字のブランドタグだけがついている、大人っぽいデザインのものだ。
「……はぁい」
不満げな表情で、しかし郁は一人レジに向かう。そんな彼女の背中を見送って、跡部は眉間に皺を寄せた。
「……ったく、もうすぐ高三だっていうのに、しょうがねぇヤツだぜ」
季節は、ひなまつりも終わった三月。吹く風ももう暖かく、マフラーも手袋もいらない時期だ。今日は郁のリクエストで、彼女の家の近くのショッピングモールに、ふたりで買い物にきていた。そして、彼女の好きな雑貨屋で一緒に文房具を選んでいたのだが。
彼女の年相応の女のコらしい趣味に、さっそく跡部はウンザリとさせられていた。「これがかわいくて、あれはかわいくない」だの言われても、興味のない自分には、その違いがさっぱりわからないのだ。
疲れを感じた跡部は、何気なく雑貨屋の向かいのカフェに目をやった。
しかし、その店頭の看板の文字に、また考え込んでしまう。『期間限定 SAKURAラテ 好評発売中!』店先に置かれている、イーゼルに乗せられたブラックボードには、温かみのある手書き文字でそう書かれていたのだが。
「…………」
サクラ味の飲み物というのは、はたして美味しいのだろうか。そもそも、どんな味なんだろう。手持ちぶさたなこともあり、跡部は思わず考え込む。すると、タイミング良く彼女が戻ってきた。
「……お待たせしました、先輩!」
ちょうどよかったと、跡部は彼女に尋ねる。
「なぁ郁、サクララテってどんな味がするんだ?」
「桜餅みたいな味ですよ。ホワイトチョコがベースで、意外とおいしいんですよ」
「へぇ……」
跡部は改めてカフェのボードに視線を戻す。あと一ヶ月もすれば、今年も美しく咲くんだろう。自分の通う学園にある立派な並木を、跡部は思い浮かべる。満開になる頃にはいつも、部のメンバーに連れられて見に行っていたんだけど。
しかし今年は、残念ながら自分はその美しい景色を見ることは出来ない。その頃にはもう、留学先に行っているはずだからだ。数日後に迫った出発の日を思い出し、跡部はわずかに表情を曇らせる。
「……跡部先輩? どうかしたんですか」
そんな自分の変化に気がついたのか、郁は心配そうに声を掛けてきた。しかし、感傷を気取られたくない跡部は、いつも通りに振る舞った。
「……なんでもねぇ。用が済んだなら行くぞ」
ペンケース以外にも色々と必要なものを買い込んで、二人は彼女の家に戻った。
「……今お茶の用意しますから、待っててくださいね」
そう言い残して、郁はパタパタと台所に行ってしまった。リビングに残された跡部は、ソファーに腰をおろした。脚を組んで、改めて部屋の中を眺める。もう何度も来ている見慣れたリビングなんだけど、しばらくは来られないのだと思うと、やはり寂しくなってくる。
長期休暇の時はもちろん日本に戻ってくるつもりで、これが最後というわけではないけど、寂しいものは寂しいのだ。それは跡部も同じだった。けれど、そんな自分をらしくないと切り捨てて、跡部は何とか気持ちを浮上させる手がかりを探す。
ふと、テーブルの上に油性ペンが置かれているのに気がついて、跡部はそれを手に取った。口の端だけで笑って、ソファーから立ち上がり、本棚の上の氷帝ジャージ姿のクマのぬいぐるみに手を伸ばす。以前は郁の部屋のベッドサイドに置かれていた、左手にバラの花が縫い付けられている、あのクマだ。
左手でペンのキャップを開け、跡部はためらいなく、クマの右目の下に泣きボクロを書き込む。しっかりと目立つようにグリグリと描いて、そしてキャップを閉めたペンと一緒に、リビングの机の上にポイと投げ置いた。そして、自分は改めてソファーに腰を下ろす。
ここに置いておけば、郁は必ず気がつくはずだ。まだ見ぬ彼女のリアクションを想像し、跡部は口角をわずかに上げる。そのとき、ちょうど彼女が戻ってきた。両手でお盆を持って、その上には湯気の立つカップが二つ。
「先輩、紅茶どうぞ。 ……って、あっ!」
早速テーブルの上のクマに気づいて、郁は声を上げる。
「もうっ! ちゃんと元の場所に戻しといてくださいよ」
お盆とカップを置いてから、大事そうにぬいぐるみを拾い上げる。
しかしその瞬間、彼女は思い切り青ざめた。
「って、何ですかこの泣きボクロ!」
予想以上のリアクションに、跡部は得意気に笑う。
「ますます俺様らしくなっただろ?」
「俺様って、え、何コレこすっても消えない!?」
「油性だからな」
「えっ!?」
跡部にそう言われてようやく、郁はテーブルの上に転がる油性ペンに気がついた。
「あっ! もう何てことするんですか!」
ペンとクマを交互に見つめて、改めてクマの右目の下をこすって、郁は非難がましい声を上げる。しかし、彼女のあまりの焦りぶりに跡部の機嫌は悪くなる。
「……つか、そんなクマ別にどうだっていいだろ。お前の隣には本物がいるんだから」
例えぬいぐるみのクマであっても、愛しの彼女が自分以外に愛情を向けるのが許せずに、跡部は郁に突っかかる。
「そ、それは……」
「だいたいテメェはなあ、クマだのネコだのに愛情を注ぎすぎなんだよ」
「そっ、そんなことないですよ!」
「そんなことあるぜ。大体テーブルの上のカレンダーだって、そのクマじゃねぇか」
憮然とした表情で、跡部は机の上の小さなカレンダーを指さす。そして、うっかり本音をこぼしてしまう。
「……クマより俺に愛情をそそげっての」
「え?」
「なんでもねーよ、バーカ!」
照れ隠しで子供のように彼女を罵ると、跡部はカレンダーのそばに置かれていた、小さなこげ茶色のマスコットに、やつあたりの標的を移した。
「それと、あのキノコみたいなのは何なんだよ。前はあんなの無かったよなぁ?」
微妙にヒワイなフォルムの、シュールな目鼻立ちのそれを軽く睨みつけながら、ほとんど言いがかりのような内容で彼女を責める。
「あれは…… この前日吉くんにもらったんです」
その返答を聞くと同時に、跡部はそのキノコを掴み取った。
「没収」
自分のズボンのポケットにムリヤリ押し込む。
「なんでですか!?」
跡部の予想だにしない行動に、郁は目を丸くする。
「なんでもだバカ! 大体これ以上ぬいぐるみなんて増やすんじゃねぇよ!」
ぬいぐるみが増えることなんてどうでもよくて、本当は郁が他のオトコからのもらい物を、部屋に置いているのが気に入らないんだけど。もちろんそんなこと言えるはずもなく、改めて跡部は自分の独占欲の強さを自覚する。
しかし、跡部の本心が鈍感な郁に伝わるはずもなく、二人は不毛なケンカを繰り広げる。
「いいじゃないですか! 返して下さいよ!」
「ダメだ! 大体あんなキモいもん部屋に置いてんじゃねぇよ! ふざけんな!」
「キモくないです! それに、あのキノコだってすごく流行ってるんですっ! とにかく返して下さい!」
本当に困った様子で、郁は必死に跡部に頼み込む。
「ダメだッ!」
しかし頑なに撥ねつけられて、彼女はしぶしぶキノコの奪還を諦めたのだった。
「……もう、信じらんないっ!」
ふくれっ面で、郁は跡部のとなりに腰掛ける。
(この鈍感ッ!)
跡部は黙り込んだまま、心の中でだけそう言い返す。面倒くさいと思われようとも、しかし大好きな彼女にだけは、自分の気持ちは言わなくても分かってもらいたい。わがままな恋心を、無意識に跡部は持てあましていた。
といっても、言わせんな恥ずかしいと相手に甘えているだけなのだが、今の彼がそれに気がつくことはない。キングの愛情表現は、いつだって難儀なのだ。
しかし、テーブルの上に置かれている、紅茶の注がれた桜柄のカップを見て、跡部は大切なことを思い出した。数日後の、自分が留学先に出発する日のことだ。
本当はもっと早く伝えなければならなかったのに、がらにもなく言い出せずに、ズルズルきてしまっていた。本当はこんなケンカをしている場合ではなかったのだ。
「……そうだ郁、卒業式の日のことなんだけどな」
いつも通りの口調で切り出したつもりだったのに、声がわずかに上擦った。内心で舌打ちをしながら、しかし跡部は言葉を継いだ。
「出発の飛行機は――時だから。――時までには空港に来いよ」
「あ…… ハイ」
けれど、心なしか彼女も動揺しているようだ。色々と感傷的になっていたのは自分だけではなかったと思い、跡部は少しだけほっとする。
「遅刻すんじゃねぇぞ」
しかし、そう念を押した瞬間、急に横から抱きつかれた。
「オイ、郁……」
正面から抱きしめ直したくて、跡部は自分に抱きつく郁を一旦引きはがそうとしたのだが、彼女のあまりにも辛そうなすすり泣きに断念する。机の上のカレンダーに目をやると卒業式は明後日だった。
桜の木の下でspring has come!と無邪気に喜ぶクマを見つめながら、跡部は無意識につぶやいた。
「……春なんて来なければいいのにな」