*Short DreamT*

□【跡部】あの夏がきこえる
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「ほ、本当にこんなことになるなんて……」

 利き手にテニスのラケットを握りしめたまま、郁はジャージ姿で呆然としていた。

「あーん? なんでジャージなんだよ。色気ねーな」

 そしてそんな彼女に向かって、愛しさと気安さからセクハラまがいの言葉をぶつけるのは……。

「スコートなんて持ってませんしっ! てか何てこと言うんですか、跡部先輩っ!」

 セクハラですっ、と郁はすぐ隣の跡部に非難がましい視線を向ける。晩冬の穏やかな日差しがふりそそぐ、跡部邸の屋外テニスコートに、ふたりはジャージ姿で立っていた。



 体育の授業でテニスを選択した郁は、ひょんなことから、なんとあの跡部にコーチしてもらうことになったのだった。そして、そのレッスンの初日が今日だったわけなのだが……。

「じゃあ、とりあえずサーブ打ってみろよ」

 上からだぞ、と跡部は郁に指示を出す。

「……わ、わかりました」

 戸惑いながらも素直にそう返事をして、彼女は自分の近くに置かれているテニスボールが沢山入ったカゴに手を伸ばした。ひとつだけボールをつかみとる。そしてカゴから少し離れて、緊張しながらも大きく息をしてから、思い切りサーブを打った。ポーンという軽い音がしたそのすぐあと。

「……アウト、だな」

「……すみません」

 そのへなちょこサーブは、見事ラインの外に着地したのだった。そのままボールはころころとコートの隅に転がっていく。

「ほんっと、ヘタクソだなお前」

 盛大なため息を吐きながらそう言って、跡部は眉間に手を当てる。郁の運動音痴は、予想以上に深刻だった。

「だ、だから嫌だったんですよ……」

 すでに泣き出しそうになりながら、郁は跡部にすがるような視線を送る。自分がどれだけダメかくらい、数度行われた授業で嫌というほど思い知らされていた。先生には呆れられ、氷帝テニス部の現部長の日吉には笑われ、もう散々だったのだ。

「でもまあ、空振りじゃなかっただけマシか。って、オイコラそんなことで泣くなッ!」

 一応フォローするが微妙に遅く、めそめそと涙をこぼす郁を、跡部は懸命になぐさめる。よしよしと頭を撫でながら、考える。ここまでヘタなヤツに教えるのも久しぶりだ。どうしたものか……。しばらく考えこんでから、跡部は言った。

「とりあえず、だ」

 片手を腰にやって、しょうがねぇなという顔をする。

「俺様がお手本を見せてやるから、よーく見とけよ?」



 コートの外に一人立って、郁は跡部に視線を送る。豪華すぎるテニスコーチの華麗なるサーブを、その目にしっかりと焼き付けようと、ラケットを抱きしめるように持ちながら、まばたきもせずに見つめる。

 一度だけ、ボールを地面にバウンドさせてから、ボールを軽く投げ上げて、そして跡部はサーブを打った。打球は当然のように、相手コートの中央に決まる。けれどそれは、普段の跡部の試合でのサーブとは完全に別物の、超スローモーションで威力も低い、彼女のお手本用のものだった。

「わぁ、スゴイ……」

 しかし、郁はそんな言葉を漏らす。確かに威力は低いけど、教科書通りの流れるような跡部のサーブに感動したからだ。授業で一緒にプレーしている、日吉や他のテニス部の部員たちとは全く違う、無駄も隙もない動きに思わず見とれてしまう。

 プレイヤーとしてフォームをコピーするために見ているはずなのに、彼女はうっかり目的を忘れてしまいそうになっていた。

「おい、ちゃんと見てたか?」

 けれどご本人に呼びかけられて、郁は現実に引き戻される。

「は、はいっ! 見てましたっ!」

 妙に焦ったその返事を聞いて、なぜか跡部は楽しげに笑う。

「じゃあ、今度はお前がやってみろよ」



 何度目かの、ポーンというボールを打つ音がしてすぐ。

「や、やったぁ入った!!」

 郁の嬉しそうな声がコートに響いた。ようやく、サーブがまともに決まったのだ。

「おー、良かったじゃねぇのよ」

 跡部も彼女から少し離れたところで微笑む。

「その調子だぜ。もう何回か打ってみろよ」

「はいっ!」

 跡部に促されて、郁は足元のカゴのテニスボールを改めて手に取った。やはり緊張しながらも、上の方にぽいっと投げて、彼女なりの精一杯で打ち込む。そのへなちょこサーブは、けれども相手コート内にきちんと着弾した。

(……これでなんとか、大丈夫そうだな)

 彼女のそのサーブを見て、跡部は口の端を上げた。威力はまだまだ相変わらずだけど、とりあえずはこれでいいだろう。気がつくと、最初はすり切りいっぱいテニスボールが入っていたはずの彼女の足元のカゴは、いつのまにか空になりそうになっていた。二人でたくさん打ったからだろう。

 軽く息を吐いて、跡部は空を見上げた。頭上には、雲ひとつない薄青い冬の空が広がっている。けれど、太陽の傾きの変化に時間の経過を読み取ると、跡部は改めて彼女に声を掛けた。

「おい、そろそろボール拾って休憩にするぞ!」

 

 コートの隅に転がるボールを見つけるたびに、郁はしゃがみ込んで手を伸ばして、大事そうに拾い上げる。そして、落とさないように気をつけながら、ラケットの面に乗せていく。

 持ちきれなくなったところで、ボールをカゴに戻しに行くと、ちょうど跡部が、ボールを拾おうとしていたところだった。一瞬だけ腰を落として、跡部はラケットのガットでボールを叩く。ボールは高く弾んで、跡部はそれをキャッチした。その間、ほんの数十秒。

「…………」

 ボールを落としてしまわないように、しっかりと手で押さえながら、郁は無言で跡部を見つめる。

「……何だよ?」

 その視線に気づいて、跡部は彼女に問いかける。

「それ、どうやってやるんですか?」

 うらやましそうな表情で尋ねられて、思わず跡部は笑みをこぼした。

「日吉くんたちも、そうやって拾ってたんです」

「ああ……。そりゃあそうだろうな」

 部活での球拾いの光景を思い出しながら、跡部は考える。このボールの拾い方は、実は自分のラケットのガットの張力と、ボールの反発力をわかっていないと出来ないんだけど、超がつくほどの初心者の彼女に、どう説明したらいいんだろう。

「…………」

 けれどやっぱり面倒くさくなって、跡部はニヤリと笑った。

「やり方説明したって、お前じゃまだ無理だよ」

「え〜」

 悲しそうな顔をされるが、気にしてはいけない。ボールの拾い方なんかより、教えたいことはたくさんあるのだ。

「それより、そっち全部拾えたのか?」

 なるべく自然に、跡部は話をそらす。

「はい、拾えました!」

 彼女の明るい返事を聞いて、跡部は言った。

「よし。じゃあ休憩するぞ」



 タオルを首に掛けて、二人はベンチに並んで座る。

「ほら、飲め」

 跡部はドリンクを郁に渡す。こう見えて、意外と面倒見はいいのだ。

「ありがとうございますっ」

 嬉しそうに笑って、彼女はそれを受け取る。こうしていると、二人はまるで仲の良い兄妹のようにも見える。晩冬だから吹く風は冷たいけど、さっきまで元気にプレーしていた二人にとっては、その冷たさはむしろ心地よかった。

 澄み切った冷たい空気を肺いっぱいに吸い込むと、なんだか心までクリアになるような、そんな気さえもする。今は誰もいないテニスコートを眺めながら、跡部はぽつりとつぶやいた。

「……サーブ、出来るようになって良かったな」

「はい、良かったですっ」

 郁は機嫌良くそう答えると、改めて跡部にお礼を言った。

「先輩のおかげです。ありがとうございます」

「ま、俺様だからな」

 視線を彼女に移して、跡部は得意気に笑った。ふと、気になったことがあって、跡部はまた口を開いた。さりげなさを装いながらも、彼女に質問を投げかける。

「テニス楽しいか?」 

「楽しいです。先輩に教えてもらえるのも、すごく嬉しいです」

 無邪気な笑顔で、本当に嬉しそうにそう言われて、跡部はそっと目を伏せた。

「……なら良かったよ」

 今まで感じたことのなかった、満ち足りた気持ちになる。ずっとこうやって彼女と一緒にいたいと、そんなことを跡部は思う。……この屋敷に、自分のとなりに、ずっと彼女がいてくれて、そしてにこにこと笑っていてくれたなら、自分はどんなに幸せだろう。しばらくそんなもの思いに耽ってから。

「……じゃあ、そろそろ練習再開すっぞ」

 おもむろに立ち上がって、跡部は彼女を振り返った。



 大きな窓からは、オレンジ色の優しい夕日が見える。黄色いボールを追いかけて、懸命にコートを駆け回っていたら、あっという間に日が暮れてしまったのだ。今日はもうおしまい、ということでふたりは跡部の私室に戻って来ていた。しかし、その部屋の主は今はいない。

「俺がいない間に、シャワー浴びて着替えとけよ」

 とだけ言い残して、彼女の好物のプリンを取りに行ってしまったのだ。部屋にひとりにされた郁は、言われた通りにシャワーを浴びて、着替えも済ませて、彼の戻りを待っているのだが。

「なんか、眠くなってきたな……」

 今になって、どっときた疲れに抗いきれずにいた。だからといって、まさか寝るわけにもいかない。しかし立ち上がったり、跡部のまるでホテルのスイートルームのような部屋を、きょろきょろと見回したりするような元気は、郁にはもう残っていなかった。

 けれど、少しでも眠気を追い払おうと、彼女は考え事をはじめる。ソファーに座ってクッションを抱きしめながら、楽しかった今日を回想する。そしてラリーの練習をしていた時の、跡部の姿を改めて思い出した。

「……やっぱり、テニスしてるときが一番カッコイイな」

 幸せそうに微笑んで、そんなことをつぶやく。楽しそうな笑顔もキラキラと輝いていて、彼女にとっては本当に、王子様のように見えたのだ。

「もっと見てたかったな。テニスしてる先輩の姿……」

 無意識にそんな言葉を漏らして、彼女はそっと瞳を閉じた。



 目蓋の裏によみがえるのは、まだ蝉が鳴いていた季節の出来事だ。積雲の白が映える、鮮やかな青空のもと。照りつける日差しをものともせずに、ただ前だけを見つめて、ひたすらにボールを追いかける、まぶしい跡部の姿。

 今はもう過ぎ去ったあの夏の、歓声が不意に耳に届く。鳴り止まない氷帝コールも。そして、フィンガークラップの音が響いて……。

「……勝てなかったけど、私にとっては」

 その大切な思い出は、美しいまま時を止めて、今も彼女の胸にある。

「本当に、最高の夏だったよ」
 

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