*Short DreamT*

□【跡部】春の雪/後編
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「――ねぇ景吾、綾香さんとは順調?」

 出し抜けにそんなことを訊かれて、跡部はわずかに眉を動かす。短かった秋も終わり、年の瀬も押し迫ったある日のこと。

「……順調だと思いますが。どうしたんですか? 父さん」

「だって、気になるんだもの」

 ふふ、と笑ってから、跡部の父は温かなダージリンの注がれたカップを傾けた。薄い磁肌に精緻な花の装飾の施されたそれは、跡部の母のお気に入りのものだった。

「……………………」

 父の真意をはかりかねて、跡部は押し黙る。そして自分もまた、ティーカップに口を付けた。父と二人でお茶を飲むなんて、本当に久しぶりだ。何を話せばよいのかも分からずに、跡部は窓の外の景色に視線を送った。

 父の後ろには、ちょうど大きな窓があった。季節柄もあり、屋敷の庭園のバラは全て葉を落として、そこにあったのは芝生と常緑樹の緑だけだった。寒々しい庭の様子に、これからはもっと寒くなるんだろうと、跡部が思ったそのとき。

「――景吾、君は綾香さんのどこが好きなの?」

 急に尋ねられて、ほんの一瞬だけ、しかし確かに跡部は答えに詰まった。だってそんなこと、考えたこともない。

「……どうして、そんなことお聞きになるんですか」

 質問を質問で返す。その声は、自分でも驚くほどに苦しげだった。

「さぁ、どうしてかな」

 いつも通りの柔和な笑みを浮かべながら、父はつかみどころのない答えを返す。からかわれただけなのだろうか。しかし……。気詰まりな空気に耐えかねて、跡部はカップをソーサーの上に置く。自分の父ながら、底の見えない人だ。

「そうだ、そういえば綾香さんのお誕生日がね、今週の土曜日なんだよ」

「……っ!」

 跡部は息を詰まらせる。数日前に会ったとき、本人はそんなこと、ひとことも言ってこなかった。

「せっかくだから二人で食事にでも行ってきたら? うちの系列なら、今からでもいいレストランが押さえられるよ」

 息子の不手際を叱ることもせず、父は何でもない口ぶりでそんなアドバイスをする。

「そうですね」

 跡部は目を伏せた。自分は本当に彼女のことを何も知らないんだと思い知る。そして、好かれてはいないということも。

 けれど。だからこそ、自分はもっと彼女のことを知っていかなくてはいけない。そして、好意を持たなくてはならないのだ。無意識に、跡部はそんなことを考える。

「どこで食事するか決めたら、教えてね」

 穏やかな笑みを浮かべたまま、父は立ち上がる。

「それじゃあ、僕は書斎に戻るよ」

 椅子に腰を下ろしたまま父の背中を見送って、跡部はまた視線を落とした。心の中にまた鉛色の雲が立ちこめる。父に彼女のどこが好きかと訊かれたとき、自分はこう言ってしまいそうになったのだ。『断る余地のない話を、持ってきたのはあなたじゃないですか』と。



 自分が目を覚ましたとき、彼はもう既にスーツを着込んだ後だった。ベッドから起きあがり、綾香は目元をこする。手近な時計で時間を確かめる。幸いにも、まだそんなに経っていないようだった。

 よかったと息を吐いて、綾香はベッドサイドに丁寧にたたんで置かれていた白いワンピースを手に取った。袖を通して、寝乱れた髪を整える。そしてリビングにいるであろう、彼のもとに向かった。

「……もう起きてたのね」

「ええ」

 一分の隙もないスーツ姿で、運転手の彼は綾香に向かって微笑みかける。ここは、彼のマンションだった。

「それでは戻りましょうか、お嬢様」

 二人きりでいるのに、ベッドの外では他人行儀な呼び方を決して崩そうとはしない彼に、綾香は悔しさと悲しみを覚える。しかし、そんなことで彼を責めても、困らせてしまうだけだ。その程度の分別は、綾香にもあるつもりだった。

 人目につかないように、二人は別々にマンションの玄関を出た。車の中で落ち合って、揃って屋敷に戻る。運転はもちろん彼だった。

 最低のことをしている自覚はあった。けれどずっと、もう何年も前から、綾香は彼のことが好きだったのだ。今はまだ誰にも言えない関係だけど、いつかきっと皆に認めてもらえるようになろうねと、ふたりで約束した矢先の、跡部家の令息との縁談だった。

 後部座席に座り、ミラー越しに綾香は彼の表情を盗み見る。すがるような思いで、嫌いになれそうなところを探す。こっそりと見ていたつもりだったのに、目が合ってそっと微笑まれた。愛する彼から視線を外して、綾香は俯いた。

(……やっぱり嫌いになんてなれない)

 彼女がそう確信したそのすぐあと、車は屋敷にたどり着いた。

「――遅かったじゃないか、綾香」

 二人が戻って来てすぐ、朗らかな笑みを浮かべながら、近づいてきたのは彼女の父だった。大柄で恰幅の良い身体に、明るい笑顔はよく似合っている。何も知らなければ、どこにでもいる快活な父親にしか見えないだろう。

「……お父様」

「申し訳ございません、道が混んでおりまして」

 すかさず、運転手の彼は綾香をフォローする。

「そうかぁ、この時期は仕方がないなぁ」

 はっはっは、と綾香の父は声を立てて笑う。

「そうだ綾香、さっき跡部くんから連絡があったぞ。誕生日のお誘いだ、良かったじゃないか」

 たいそうご機嫌な父に、綾香は返す言葉もない。消え入りそうな声で、はいとだけ返事をする。運転手の彼はポーカーフェイスを崩さぬまま、しかし彼女とその父の様子を気づかわしげに伺う。

 けれど、幸いにも父は娘の様子は気にもせずに、自分の言いたいことだけを言い終わると、またどこかへ行ってしまった。……そしてついに、そのときがやって来る。



「……うわっ、マジで降ってきやがった」

 傘を持っていなかった跡部は、小さく舌打ちをして空を仰いだ。濃紺の空にはおぼろげながら星が瞬き、週末の雑踏に微かな光を届けている。そして綿のようにふわりとした雪が降り出したのは、いましがたのことだ。

 今日は許嫁の綾香の誕生日。しかし跡部はひとりで、夜の繁華街を歩いていた。もっと長い間一緒にいられるかと思ったのに、ディナーを楽しんで早々に、彼女は例の運転手に連れられて屋敷に戻ってしまったのだ。しかし「父に呼ばれている」のであれば、跡部は何も言えない。

 形容しがたいうら寂しさを覚えながらも、跡部はコートの襟を立てて歩く。ぽっかりと時間が空いてしまった。けれど、まっすぐ家に帰りたくはなかった。氷帝の仲間に連絡をとってみようか、跡部はらしくないことを考える。寒さに凍えた手で、ポケットから携帯電話を取りだした。

 そしてふと顔を上げたそのときに、跡部は見てしまったのだ。足早に行き交う人々の向こうで、手をつないで歩きながら幸せそうに笑いあう、綾香と例の運転手の姿を。

 恋人の裏切りにも関わらず、仲むつまじい二人の姿を見て、しかし跡部は、ほっとしたような気持ちになったのだった。



『最後の思い出に、手をつないで街を歩きたい』

 そう言い出したのは彼女の方だった。けれど、それを了承してしまった自分も、もしかしたら心のどこかで、この展開を望んでいたのかもしれない。

 目の前には不機嫌に煙草をくゆらせる綾香の父がいる。この人が煙草を吸うのは、決まって何か許せない出来事があったときだけだ。長年仕えてきた彼は、誰よりもそれをわかっている。それこそ、実の娘の綾香よりもずっと。

「まさかお前に、恩を仇で返されるとは思わなかったよ」

 激しい憎しみのこもった低い声でなじられる。そこにいるのは陽気な父ではなく、辣腕で名高いコンツェルンの総帥だ。

「……許されるなら今ここで、お前を殺してやりたいよ」

 彼の胸ぐらを乱暴に掴み、まるで唾でも吐きかけるように、綾香の父は子飼いの部下を侮蔑する。



***



 自分が喋ったわけではないが、目撃者は他にもいたらしい。今にして思えば、きっとあの二人はああなることを望んでいたのかもしれない。

『もう何年も前からね、皆に内緒で付き合ってたみたい』

 電話口から聞こえる父の声は、普段となにひとつ変わらない飄々としたものだった。跡部は黙って、父の話を聞く。

 別に、ショックとか悔しいとか、そんな気持ちがあったわけではなかった。ただ、強いて言うのなら虚しい。そのひとことに尽きる。半年以上、一緒に過ごしてきたのに。

『……無理強いをしたつもりはなかったんだけど、でもやっぱり僕たちの言うことはみんな断りにくいのかな』

 彼の父はぽつりとつぶやく。その言葉の端に形容しがたい哀しみを感じ取り、跡部は長い睫毛を伏せた。電話の向こうの父の自嘲の笑みが見えた気がして、なぜか跡部の胸までもが痛んだ。

『景吾も、本当にごめんね』

 父にそうやって謝られたのは、生まれて初めてのことだった。

 綾香の父と自分の祖父との間で、どんなやりとりがあったかは知らない。ただ、あの提携が破談になったという話は聞いていない。けれどそれ以来、跡部は自分の両親や祖父母に、異性を紹介されることはなくなった。

 ほとぼりが冷めた頃を見計らって、もう縁談はないのかと跡部は遠回しに父に尋ねたことがある。そのときの言葉は、今でも彼の脳裏にこびりついている。

『自分の子供には、幸せでいてほしいからね』



「――映画、泣けましたね!」

 未だに瞳を潤ませたまま、彼女――郁は自分に同意を求めてくる。

「……まぁなあ」

 本音を言えば、昔のあまり思い出したくない出来事が蘇って、純粋に映画を楽しめなかったのだが、跡部は一応話を合わせる。

 忘れていたが『しいて言うならこれが見たい』と言ったのは、他ならぬ自分自身だった。心の内で、跡部はミスチョイスを悔やむ。原作が純文学だったからすこしはためになるかと思ったのに、とんだ落とし穴だった。

「でも、ラストのお寺の場面とかすごく綺麗でしたね! あと聡子役の女優さんも」

「そうだな」

 それは同意できる。跡部は素直に頷いた。予算をかけている作品だけあって、映像の美しさは際立っていた。旧き良き大正の日本と、原作の耽美な世界観を余すところなく表現していた。それだけで、劇場まで足を運んだ甲斐があったというものだろう。映画館のロビーで目元をこする郁に向かって、跡部は改めて口を開いた。

「……悪かったよ」

「え?」

 跡部の唐突な台詞に、彼女はきょとんとする。

「朝、どうでもいいとか言って」

 その言葉を聞いて、小さく首を横に振ってから、郁は嬉しげな笑みを浮かべた。

「もう、気にしてないですよ」

 屈託のない返事に毒気を抜かれて、思わず跡部は口元を緩める。自分から好きになって、自分から告白した彼女なのだ。ちゃんと大事にしなければ。



 ふと、後輩から聞いた話を思い出し、跡部は悪戯を思いついた子供のような表情を浮かべた。口角をわずかに上げて、話を振る。

「そういえば、お前体育でテニス選択したらしいじゃねぇか」

「……え、なんで知ってるんですか」

 自分には知られたくなかったのか、郁は嫌そうな、それでいてどこか恥ずかしそうな顔をした。そのリアクションに、跡部は機嫌を良くする。

「日吉が言ってたぜ。サーブ空振りして先生に呆れられてたって」

「〜〜っ!」

 よほど忘れたかった出来事だったのか、彼女は顔を真っ赤にし、きっと跡部をにらみつける。だけど、子犬のような大きな瞳と、赤く染まった頬でそんなことをされても、跡部にとっては嬉しいだけだ。

「……ちゃんと練習してできるようになりますしっ!」

「ホントかよ。怪しいもんだぜ」

 なぜかムキになる郁に、跡部はニヤニヤと笑いながら、恒例のわがままを吹っかける。

「……特訓してやるよ。お前、来週俺のウチに来いよ」

「え〜〜っ!」

 そう。傍若無人なこのノリこそが、いつもの自分だ。ようやく跡部は、ひととき見失っていた自分を取り戻したように感じていた。かつての恋の感傷なんて、やっぱり自分には似合わない。

「なんだよテメェ、この俺様の好意が受け取れねぇって言うのかよ」

「そ、そういうわけじゃあ、ないですけど……」

 まだ微妙に嫌がる彼女と、強引に約束を取り付けて。跡部は何かを吹っ切ったような、晴れやかな笑みを浮かべた。

「なら決まりだな」



 その夜。夕食の時間に、跡部はまた父に絡まれた。

「……郁ちゃんだっけ。今度の子とは長続きするといいね。いい子だし」

 断定的な口調で、急にそんなことを言い出した父にひっかかり、跡部は顔を上げた。

「道を聞いたら親切に教えてくれたって、母さんが言ってたよ」

 こともなげにそう言って、父は未だ湯気のたつスープを口に運ぶ。驚いて、跡部は今日の出来事を回想した。しかしすぐに、心当たりに思い至る。世間は狭い。

「いつか、ちゃんと会わせてほしいな」

「……そのうち、連れてきますよ」

 満足そうに微笑む父に、跡部は口の端を上げて答えた。

『君と君の選んだ人が、どうか幸せでありますように』

 窓の外にはいつのまにか、冬の終わりを告げる淡い雪が、ただ優しく舞っていた。




End
 

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