*Short DreamT*

□【跡部】春の雪/前編
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 それから、彼女とふたりで会うことが増えた。跡部邸の屋外テニスコートに、初夏の日差しが降りそそぐ。

 コートのそばのベンチに座って、彼女――綾香は跡部のプレーを眺めていた。ボールを数度バウンドさせて目を細め、跡部は大上段からサーブを繰り出す。彼が腕を振り下ろすとほぼ同時に、ボールが相手コートの地面を打つ鋭い音が響いた。

 打球のコースを確認してから、大きく深呼吸をして。跡部はポケットから二つ目のボールを取り出す。そしてまた数度バウンドさせてから、今度は大きなかけ声とともにサーブを打った。今日は部活が休みの水曜の放課後。例えそんな日であっても、跡部が練習を欠かすことはない。

 何度かサーブを打ってから、跡部は綾香に声をかけた。コート上から呼びかける。

「――よかったら、一緒にプレーしませんか?」

 しかし、彼女は首を横に振る。

「跡部くんの邪魔になるわ」

 それはあまりにも控えめな、跡部にとってはもの足りない答え。ラケットを持ったまま、跡部は綾香のいるベンチに戻る。

「邪魔だなんて思いませんよ。それに、ウェアもシューズも用意してありますし」

 彼女から渡されたタオルを受け取りながら、意識して柔らかく微笑みかける。せっかくの共通項なんだから、これを利用して親睦を深めたい。跡部はそう考えていた。

 確かに月並みな考えではあるけれど、跡部の周りでテニスの話ができる女性は思いのほか少なく、ずっと跡部はそのことを不満に思っていたのだ。

 自分を好きというのなら、自分が好きなものも少しくらいは理解しようとしてほしい。そう思うのは人間の自然な感情だろう。しかし遠慮もあったのか、跡部に群がる女性で、彼のその思いに気がつくものはいなかった。

 しかし、綾香がその数少ないテニスがわかる女性の一人だったというのも、跡部にとっては密かな自慢だった。だって、ますます自分の伴侶にふさわしいじゃないか。そんな跡部の思いを知ってか知らずか、綾香はそっと微笑んだ。

「観ているだけで充分ですよ」

「そうですか……」

 その穏やかな微笑みに、どことなく拒絶されたような疎外感を覚えて、跡部は内心で落胆する。知り合ってもう数ヶ月も経つのに、まだ壁があるような気がする。名家のお嬢様というのは、こういうものだっただろうか。跡部の気落ちを察したのか、おもむろに綾香は口を開いた。

「跡部くんのフォームは綺麗ですね」

「……ありがとうございます」

「スイスの――選手みたいだわ」

 それはテニスプレイヤーであれば知らないはずはない、世界ランク上位のプレイヤーだった。

「それは、とても恐れ多いですね」

 けれど、フォームの型にも自信のあった跡部は、自分でも意識しないうちに、口の端を上げていた。



「――景吾様! 綾香様!」

 唐突に名前を呼ばれて、跡部と綾香は声の方を見返す。すると跡部家の家政婦が、スーツ姿の男性を伴って、いそいそとこちらにやってくるところだった。

「どうしたんだよ?」

「……綾香様にお迎えが」

 跡部の問いかけに、家政婦は畏まった面持ちで答える。そして、脇に控えるスーツ姿の男性に一瞬だけ視線を送る。

 年の頃は綾香と同じか少し上。その手には白い手袋がはめられており、跡部は運転手か何かだろうと予想する。しかし、細身のスーツをスタイリッシュに着こなすその様は、切れ者の秘書のようにも見える。

「申し訳ございません、跡部様」

 家政婦に視線を送られた男性は、それを受けると、跡部を見据えて慇懃に頭を垂れた。つかの間、跡部は彼の瞳の奥に、ほの暗くゆらめく炎のようなものを見る。しかしそれは一瞬にして消え、今の彼の眼差しは忠実な使用人らしい穏やかさを取り戻していた。

「…………」

 妙なひっかかりを覚えたが、何も言えずに、彼に付き添われコートをあとにする綾香を、跡部は複雑な面持ちで見送った。



 そんなことがあっては、練習に身が入るはずもない。跡部はコートから引き上げて、自分の部屋に戻っていた。軽くシャワーを浴びて、私服のシャツに着替える。そしてあのときの運転手のことを思い出す。

 確かに睨まれた。それは間違いない。しかし、そんなことをされる覚えは本当に跡部にはなかったのだ。政略そのものの交際なのは承知していたが、綾香と自分であれば両家のメリットにこそなれ、デメリットとなることはありえない。自分も出来る限りで、良い交際相手の責務を果たしてきたつもりだった。

 自分のファンを自称する女子生徒とも距離を置き、テニスと学業の次に綾香を優先していた。それこそ、周囲に望まれた関係そのもののはずなのに……。

 跡部がそんなもの思いに囚われていたそのとき、部屋の扉をノックする音がした。人の応対をする気分ではなかったが、跡部は渋々と扉を開ける。そこにいたのは馴染みの使用人ではなく、自分の父だった。意外な人物の登場に、跡部は小さく息を呑む。

「……どうしたんですか、父さん」

「驚かせちゃって、ごめんね」

 相も変わらず、父は飄々としていた。息子の不躾な態度など、全く意に介していないようだ。そしてまた唐突なことを言い出して、跡部を困惑させた。

「ねぇ景吾、今からドライブに行こうよ」

 手の中で車のキーをもてあそびながら、跡部の父は穏やかに笑う。



 眼前のフロントガラス越しには、都心の目抜き通りの夜景が広がる。前を走る車のテールランプやガラス張りの路面店のライトアップ、マンションやビルの窓明かりが跡部の目に眩しく映る。黒塗りの外国車のハンドルを握る、父はいやに上機嫌だった。

「……自分で運転するのなんて久しぶりだよ。腕が鳴るなぁ」

「気をつけてくださいね。あなたが事故を起こしたら、ささいものでも新聞に載ってしまいます」

 子供のようにはしゃぐ父を、跡部は苦笑しながらたしなめる。

「ちえっ、景吾は冷たいな」

 唇を尖らせながらも、父は手慣れた様子でハンドルを切る。クルマはちょうど、レジデンスの裏側の散策路に差し掛かっていた。桜並木で知られる、静かで落ち着いた長いスロープ。小さな公園と道沿いの桜の木々のシルエットが、街灯に照らされてぼんやりと夜の闇に浮かび上がっている。

 ふと跡部は、まるで自分がどこかの住宅街の小路に迷い込んでしまったような、そんな錯覚を起こす。しかし、正面に視線を戻してほんの少し見上げれば、そこにはヒルズのタワーが圧倒的な存在感でもって、そびえ立っていた。跡部はとたんに現実に引き戻される。

 このタワーは、跡部家の誇りそのものだ。父と祖父が十七年の歳月をかけて成し遂げた、総事業費数千億円のビッグプロジェクト。オープニング時には時の首相が駆けつけて祝賀挨拶を行ったと聞いている。目の前の塔をうっとりと見上げながら、跡部の父はため息を漏らした。恍惚に浸った表情のまま、愛息につぶやきかける。

「――ああ、早く君とも仕事の話がしたいよ。景吾」

 父のその言葉に、しかし跡部は自分の宿命を、嫌というほど自覚させられたのだった。



 時間は少しさかのぼる。綾香を後部座席に乗せてから、彼は車を発進させた。意図的に遠回りになる道に入って、口を開く。

「……今なら、まだ引き返せます」

 その口ぶりは使用人のそれではなく、さながら恋人を責める嫉妬に焦がれた男のようだった。

「今さら何言ってるの? もう戻れるわけないじゃない」

 彼のその言葉に綾香は拗ねた様子で言い返す。名家の令嬢たる彼女が、いじけた子供のようなその表情を見せるのは、ハンドルを握る彼と二人きりのときだけだ。

「発表はもう明後日なのよ。わかってよ……」

 そこまで言って、彼女は喉を詰まらせる。あふれる涙を拭いながら、綾香は彼の下の名前を呼んだ。



『―――社、―――との資本業務提携で合意』

 二日後。大きな見出しが、全国紙の一面を飾る。同日の経済面には満面の笑みを浮かべて手を握り合う、綾香の父と跡部の祖父がカラー写真で掲載されていた。



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