*Short DreamT*

□【跡部】春の雪/前編
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 俺様を振る女なんていない。本気でそう思っていた時期が、確かに自分にもあった……。

 窓の外の雪景色を眺めていた跡部は、その遠慮がちなノックの音に気がついて顔を上げた。天気のいいある朝。休日のこんな時間に自分の私室を訪ねてくるなんて、誰なんだろう。不思議に思いながらも、跡部は声を張って返事をする。

「――景吾、入ってもいいかい?」

 穏やかなその声を聞いたのは、実に数ヶ月ぶりだった。

「……どうぞ」

 跡部は声の主を促す。かちゃりとドアノブの回る音がして、部屋に入ってきたのは壮年の男性だった。

「日本に戻ってらしたんですね、父さん」

 そう言って跡部は、学校では見せることのない穏やかな笑みを浮かべる。

「うん、ついさっきね。母さんも戻ってきてるよ」

 そう言いながら、跡部の父は後ろ手に部屋のドアを閉める。

「景吾、今から下でお茶にしないかい? 母さんのお土産のケーキがあるんだ。みんなで食べよう」

「わかりました。今から行きます」

 跡部はそう答えて、未だドアのそばにいる父の方に向かう。

「――そうだ、景吾。綾香さん、覚えてる?」

不意に尋ねられて、跡部の瞳はわずかに揺れる。蘇るのはある一人の、美しい年上の女性。

「……はい」

 それは、忘れられるはずのない出来事だ。

「来年の春にね、子供がうまれるそうだよ」

 跡部の父は目を細める。まるで、大切な思い出話をするかのように。

「…………」

 跡部はじっと押し黙る。

「ずいぶん若いお母さんだよね。これから大変だ」

 口元に手をやって、ふふっと笑う。

「それじゃあ下に行こうか、景吾」



 この時期は、やはり吐く息も白い。両親と数ヶ月ぶりのティータイムを楽しんでから、駅前の大通りを跡部はひとりで歩いていた。今日は、彼女と久しぶりのデート。ふたりで映画を見ることになっている。

 クリスマスもお正月も終わった晩冬の街は、しかしそれでも賑やかで、待ち合わせ場所についたものの、彼女の姿が見つけられない。跡部は周囲を見回す。しかしそのとき、人混みの向こうに懐かしい姿を見つけて、思わず跡部は声を上げていた。

「――……綾香!?」

 しかし、目を凝らせばその姿は、その彼女ではなく……。

「なんだ、郁かよ……」

 跡部はぽつりとつぶやく。そう、その姿は例の女性ではなく、跡部が現在つきあっている年下の彼女の郁だった。自分を探しているのだろうか、彼女もまたきょろきょろとあたりを見回している。そのうち見つけるだろう。跡部はそう思い、あえて彼女を放置する。

「……何間違えてんだ、俺は」

 らしくない。昔のことを思い出すなんて、そんながらじゃないのに。けれど、こんなに感傷的になるのは、父のあの一言のせいだろうか。でも「子供が」なんて言われても、まだ高校生の自分にはちっとも想像がつかない。

「あ! 跡部先輩っ」

 雑踏の向こうから跡部の姿を見つけて、郁は嬉しそうに駆け寄ってきた。

「すみません、お待たせしちゃって」

 彼を見上げて、幸せそうに笑う。デートに気合いを入れているのか、今日の彼女は髪をゆるく巻いており、着ている真っ白なコートも彼女のかわいらしさを引き立てていた。

(……アイツも、そういえばよく白い服を着てたな)

 そんなことを思い出しながらも、跡部は眼前の彼女に向かって笑顔を作った。

「いや別に、今来たとこだぜ」

「ならよかったです」

 お約束のやりとりをしてから、郁は跡部の手を握った。

「今日の映画楽しみですね」

 にこにこと笑う彼女の頬は寒さのせいかほんのりと赤い。

「ああ、そうだな……」



 映画館に向かって二人で歩く。だがやはり、跡部はどこか上の空だ。

「そういえば、今日来る途中に道聞かれたんですよ。すごく綺麗な人で……」

 久々のデートに浮かれる郁は、それでも跡部に話を振るが、なかなか相手にしてもらえない。寂しくなった彼女は、眉間に皺を寄せて言った。

「……先輩、聞いてますか?」

「どうでもいい。つか、お前知らないヤツについていくんじゃねーぞ」

 けれど。正直すぎる跡部の言葉に、彼女は頬を膨らませる。



 予約していたシートに腰掛けてしばらくすると、ブザーが鳴ってあたりが暗くなった。目の前の巨大な画面で、予告編が始まる。今日観るタイトルは、大正時代の華族の悲恋ものだ。原作は有名な文学作品で、今冬一押しの邦画らしい。……スクリーンで舞い散る桜が、まるで春の雪のようにも思えた。



***



 彼女に引き合わされたのは、二年前のある花冷えの日だった。桜の美しい、高級ホテルのレストランでのこと。

「景吾、こちら綾香さん。―――のお嬢さんなんだ」

 父に女性を紹介されたこと自体は、何度かあった。自分の眼前で白いワンピース姿で佇む彼女は、歴史ある一流企業の社長令嬢だった。

「綾香です。よろしくお願いします」

 その微笑みは、儚い桜花のようだった。

「年も近いみたいだから二人仲良くしてくれたら嬉しいな」

 そう言って、父は意味ありげな視線を跡部に送る。勘の鋭い跡部には、それだけで充分だった。今回のホテルでの会食の目的、父の意図は…………。

「跡部景吾です。こちらこそよろしくお願いします」

 全てを察した跡部は、いかにも御曹司らしい柔らかな笑みを浮かべてそう応えた。



 まずは、父と自分と彼女の三人で前菜を楽しんだ。途中から彼女の父も加わって、四人になった。食事が終わってしばらくしたところで、跡部は綾香と二人だけにされた。ホテルの敷地の広大な日本庭園を散策する。柔らかな陽光の中、跡部は彼女に半歩遅れて歩く。

「……素敵ですね。まるで京都にいるみたい」

 庭の池にかかる橋の上で彼女は跡部を振り返って微笑む。遥かには三重塔が見え、庭のそこここでは桜が今を限りと咲き乱れていた。

「そうですね、ここが都内だなんて俺も信じられません」

 跡部も微笑み返す。舞い散る桜を背景に佇む、彼女は完璧そのものだった。まさに、令嬢の名に恥じぬ一分の隙のない美しさ。

「そうだ、跡部くんはテニスをしてらっしゃるんですよね?」

 唐突に、彼女は口を開いた。

「ええ、そうですが……」

「奇遇ですね、私もなんですよ」

 といってもただの手習いなんですけどね、そう続けてから、また彼女は笑った。



 その夜、珍しく跡部は父の書斎に呼ばれた。

「綾香さん、優しそうな子だったね。テニスしてるなんて驚いたよ」

 穏やかに微笑む父に、跡部は言いようのない底知れなさを感じていた。

「そうですね」

 言葉を選び、慎重に答える。

「君とも合いそうだ」

 微笑みながら、父は続ける。

「――ここだけの話だけど、お祖父様があそこの会社との提携を考えていらっしゃるんだ」

 核心に迫る言葉をやっと父の口から聞き、跡部はようやく緊張から解き放たれる。しかし、今度は別の暗雲が心の中に立ちこめる。

「僕は申し分のないお嬢さんだと思っているんだけど、景吾はどうかな」

 穏やかな笑みを浮かべたまま、腹を探るような質問を父は跡部に向けてくる。

「…………」

 自分の青い瞳が氷のような冷たさを帯びていくのを、跡部ははっきりと感じ取っていた。しかし別に何も驚くことはない。恐れることもない。いつか来るべきことが、今来たと言うだけだ。

 この家に生まれた以上は、恋愛も結婚もきっと自分の自由には出来ないと、跡部はそう覚悟して生きてきた。そしてそれは、相手の彼女も同じはず。そこまで思いを巡らせてから、跡部は口の端に笑みを浮かべた。

「はい、俺もそう思います。父さん」

 特権は利用すべきもの。そう考える自分は、幸か不幸か超のつくほどのリアリスト。ちょうど学校のうるさい女子たちの相手にも、うんざりしてきたところだった。美人で完璧な年上の女性。自分に似合いの、申し分のないお相手だ。それが公認のお墨付きで差し出されるのであれば、頂かない手はないだろう。

「そうか。それは良かったよ」

 思えば父のそのセリフこそが、この恋の、跡部が恋だと思っていたものの、始まりだった…………。



***
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