*Short DreamT*
□【忍足】雨の夜には
1ページ/1ページ
今日は金曜。そして今は夕方だ。降り出したばかりの強い雨にうんざりとしながらも、忍足は一人で家路を急いでいた。
傘はさしてはいるものの、時折吹く風のせいで既に制服は濡れていて、不快指数はかなり高い。せめて土日に降ってくれたなら引きこもってやりすごせるのに、どうして平日なんだろう。
そんなことを思いながら、ちょっとだ憂鬱な気分で、忍足は駅から自宅までの道を早足で歩いていた。しかし、そのとき。
「ああっ! 忍足先輩ッ!」
心地よいソプラノで妙に必死に名前を呼ばれる。間違えようのないその声に、驚いて振り向くと、偶然通りかかった本屋の軒先に、忍足の可愛い彼女が立っていた。どう見ても傘を忘れて雨宿り中という体で。
「……郁、もしかして傘忘れたんか? お前」
予報では夕方から雨だって言っていたのに。忍足は心の中でそっと、彼女の間抜けさに感謝した。
彼女を自分の傘に入れ、二人仲良く家に向かう。郁の家は、忍足のマンションと同じ方向にあった。彼女にチラリと視線を送って、小さくため息をついてから、忍足は口を開いた。
「……ホンマにアホやな。夕方から雨や言うとったやん」
「大丈夫だと思ったんですよ〜」
予想通りの脳天気な返答が帰ってくる。
「全く、お前は……」
忍足は呆れるが、彼女はにこにことしている。機嫌良く忍足の方に身体を寄せてきた。
「でも、今日は傘忘れて良かったです」
そんな彼女に、忍足もまた目を細める。
「……そういえば、相合い傘なんて初めてやね」
郁と相合い傘をするのは、そういえば初めてだった。ぴったりと密着されて、久しぶりの役得を実感する。
(相合い傘ってやっぱエエなぁ。堂々とくっつけるし)
だが忍足のさしていたカサは、二人で入るにはやや小さく……。
(でも、郁が濡れんように傘寄せとるから、俺の反対側の肩はびしょ濡れなんやけどな……)
でもまあこれはこれで、あとで使わせてもらおう。歩きながらも、小さな温もりを歩道側に感じる。雨なんて嫌なものでしかなかったけど、たまにはいいかもしれない。
ふと、彼女が持っている本屋のビニール袋が気になって、忍足は郁に話を振った。
「……そういえば、お前本屋で何買ったん?」
「今日発売の雑誌です」
改めて視線をやると、彼女が手に提げている袋はちょうどそのくらいの大きさだった。忍足は何の気なしに尋ねる。
「ああ、あの付録ついとるヤツか?」
「っ! 私はちゃんと雑誌目的ですよっ」
そんなつもりじゃなかったのに、なぜか斜め上の反論をされて思わず吹き出す。くすくすと笑いながら、だけど不意に思い出した家族の話題を口にする。
「……そう言えば、うちの姉貴もそういうんよう買っとったで。付録はみんな捨てとったけどな」
「え〜!」
「そんな驚くとこでもないやろ」
「まあ、そうですけれども……」
そんなことを話しながら歩いているうちに、いつの間にか二人は忍足のマンションの近くまでやってきた。郁の家はまだ先だが、ごく自然な口調で忍足は彼女に尋ねた。
「そや、郁。ウチに寄りたいんやけどええ?」
「あっはい、大丈夫ですけど」
忍足は彼女の返事に満足すると、わずかに口角を上げた。
「すまんな。ずっとお前の方に傘寄せとったら、逆側の肩ズブ濡れんなってもうてな」
「えっうそ!」
忍足の右肩の惨状にようやく気がついて、郁はまた焦って謝るが、忍足はこともなげに笑った。
「ほんなら、ちょっとだけ待っとってな」
忍足の部屋で、リビングのソファーに座って、郁は買ったばかりの雑誌を読みながら待つ。もう何度も来たことはあるけど、それでも他人の部屋に自分一人というのは、緊張するシチュエーションだ。しかも、となりのバスルームからはシャワーの音が聞こえてきている。
(でも、別に変な意味はないんだから……)
郁はかぶりを振って、つきまとってくる妄想を振り払う。しばらくすると、脱衣所の扉を開ける音がして忍足が出てきた。
「っ! 先輩!」
彼女は思わず忍足の方を見るが、ジャージのズボンを履いて上半身にシャツを羽織っただけの姿に、思わず目をそらす。そんな郁の手元に視線をやって、忍足は言う。
「なんや、お前ずっと雑誌見とったん?」
「だって、買ったばっかだったし……」
「ま、ええけどな」
首に掛けたタオルで髪を拭きながら、忍足は彼女のすぐ横に腰掛けた。シャンプーの匂いがふわりと香り、ドキッとした郁は手元の雑誌に視線を落とす。
そんな、ちょっと緊張している様子の彼女に気がついて、忍足は唇の端に笑みを浮かべた。だけどそれには触れずに、優しい声で問いかける。
「そういえば…… 郁、今日は金曜で明日は休みやけど、これからどないする?」
「えっ!? あっそっか」
忍足にそんなことを訊かれて、彼女は弾かれたように顔を上げた。
「何や忘れとったん?」
「……忘れてました」
照れ隠しなのか、郁は忍足からほんの少し視線を外して笑う。
「どうせ外は雨やし、帰るん面倒やろ。ウチでメシでも食ってく?」
彼女のすぐ隣、手を出そうと思えばいつでも出せる距離で、忍足はそんな風に郁を誘う。
「うーん、でもあんまりお腹すいてないんですよね……」
しかし彼女は妙に歯切れの悪い返答をする。けれど、不意に忍足の方に視線を戻すと言った。
「先輩、まだ髪の毛濡れてますっ」
「……は?」
唐突にそんなことを言われて、忍足はきょとんとする。
「ちゃんと乾かした方がいいですよ!」
「……別にええやん。めんどくさいし」
(そんなことより、大切なのは今晩ナニするかやろッ)
忍足は思うが、口には出さない。
「ダメですよ、自然乾燥は痛むんですよ!」
「そうなん?」
確かにその通りではあるけれど、自分にとっては、そんなことは心の底からどうだっていい。だってオトコだし。
「そうなんですよっ! 先輩がめんどくさいなら、私が乾かします!」
なぜかそう言って、彼女はドライヤーを取りに洗面所の方に行ってしまった。パタパタという足音が遠くなる。
「……何や、かわされた気ィするわ」
忍足はポツリとつぶやいた。しかし壁の時計に視線をやって、ニヤリと笑った。
「ま、別にええけどな」
時計は夕刻をさしている。そう、まだ焦るような時間じゃない。
「わ〜い、先輩の髪の毛サラサラ〜」
そんな忍足の心中を知ってか知らずか、郁は上機嫌で忍足の髪を乾かす。ちょっと呆れながらも、忍足は彼女に問いかけた。
「……お前、俺の髪さわりたかっただけちゃうん?」
「いいじゃないですか!」
さわりたかっただけらしい。忍足は目を伏せて笑った。
「ま、お前ならええけどな」
ドライヤーなんて面倒なだけだったけど、彼女が上機嫌でやってくれるなら、これはこれでいいかもしれない。
「先輩、髪の毛みつあみにしてもいいですか?」
「……ソレはアカンで」
「は〜い」
残念そうに唇を尖らせるが、彼女はそのままブローを続ける。そして忍足の髪を乾かし終わってから、ドライヤーのスイッチを切った。パタパタと小走りで洗面台の方に戻しに行く。
小さな背中を見送ってから、忍足はソファーに座り直すと改めて今夜の予定を考える。
(メシは後にするとして、ほんなら……)
しばらくぼんやりとしていたら、郁が戻ってきた。忍足の横にちょこんと座り、相合い傘をしていた時のように彼にぴったりとくっついてくる。
「……どしたん?」
さっきは妙なことを言って逃げたくせに、今度は自分に身体を寄せてきた郁に、忍足は問いかけた。
「……なんかね、先輩とこうやって毎日過ごせたらいいなって思って」
急に可愛いことを言い出した恋人に、忍足は笑みをこぼす。
「ほんなら、お前も努力せんといかんな」
そして、部屋の隅の本棚に突っ込んである問題集を見つめて言った。
「今日は英語教えたるわ。お前にも現役で受かってもらわんと困るし」
「えー!」
ものすごく嫌そうに声を上げて、郁は忍足を見つめた。
「何でそんな嫌がんねん」
「だって、先輩鬼コーチ……」
そんなことを言われて、でも何かを思いついたらしい忍足は再び口角を上げた。
「なら、お前でも興味持てそうな科目教えたるわ」
「……何ですか?」
「保健体育」
「よっ、余計いりません!」
郁はまた焦りだす。その反応に気を良くした忍足は、にやりと笑った。
「なんで慌てるん? 雑誌のモデルに憧れるお前に、過度なダイエットの危険性について、講義したろ思うたんやけどな〜」
「せ、先輩のバカっ!」
学年首席の医学部志望なのに、愛しの彼女にバカよばわりされて、だけど、忍足はうれしそうに笑った。壁の時計はまだ夜の八時にもなっていない。楽しい金曜の夜はこれからだ。