*Short DreamT*

□【忍足】雨の夜には
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 今日は金曜。そして今は夕方だ。降り出したばかりの強い雨にうんざりとしながらも、忍足は一人で家路を急いでいた。

 傘はさしてはいるものの、時折吹く風のせいで既に制服は濡れていて、不快指数はかなり高い。せめて土日に降ってくれたなら引きこもってやりすごせるのに、どうして平日なんだろう。

 そんなことを思いながら、ちょっとだ憂鬱な気分で、忍足は駅から自宅までの道を早足で歩いていた。しかし、そのとき。

「ああっ! 忍足先輩ッ!」

 心地よいソプラノで妙に必死に名前を呼ばれる。間違えようのないその声に、驚いて振り向くと、偶然通りかかった本屋の軒先に、忍足の可愛い彼女が立っていた。どう見ても傘を忘れて雨宿り中という体で。

「……郁、もしかして傘忘れたんか? お前」

 予報では夕方から雨だって言っていたのに。忍足は心の中でそっと、彼女の間抜けさに感謝した。



 彼女を自分の傘に入れ、二人仲良く家に向かう。郁の家は、忍足のマンションと同じ方向にあった。彼女にチラリと視線を送って、小さくため息をついてから、忍足は口を開いた。

「……ホンマにアホやな。夕方から雨や言うとったやん」

「大丈夫だと思ったんですよ〜」

 予想通りの脳天気な返答が帰ってくる。

「全く、お前は……」

 忍足は呆れるが、彼女はにこにことしている。機嫌良く忍足の方に身体を寄せてきた。

「でも、今日は傘忘れて良かったです」

 そんな彼女に、忍足もまた目を細める。

「……そういえば、相合い傘なんて初めてやね」

 郁と相合い傘をするのは、そういえば初めてだった。ぴったりと密着されて、久しぶりの役得を実感する。

(相合い傘ってやっぱエエなぁ。堂々とくっつけるし)

 だが忍足のさしていたカサは、二人で入るにはやや小さく……。

(でも、郁が濡れんように傘寄せとるから、俺の反対側の肩はびしょ濡れなんやけどな……)

 でもまあこれはこれで、あとで使わせてもらおう。歩きながらも、小さな温もりを歩道側に感じる。雨なんて嫌なものでしかなかったけど、たまにはいいかもしれない。

 ふと、彼女が持っている本屋のビニール袋が気になって、忍足は郁に話を振った。

「……そういえば、お前本屋で何買ったん?」

「今日発売の雑誌です」

 改めて視線をやると、彼女が手に提げている袋はちょうどそのくらいの大きさだった。忍足は何の気なしに尋ねる。

「ああ、あの付録ついとるヤツか?」

「っ! 私はちゃんと雑誌目的ですよっ」

 そんなつもりじゃなかったのに、なぜか斜め上の反論をされて思わず吹き出す。くすくすと笑いながら、だけど不意に思い出した家族の話題を口にする。

「……そう言えば、うちの姉貴もそういうんよう買っとったで。付録はみんな捨てとったけどな」

「え〜!」

「そんな驚くとこでもないやろ」

「まあ、そうですけれども……」

 そんなことを話しながら歩いているうちに、いつの間にか二人は忍足のマンションの近くまでやってきた。郁の家はまだ先だが、ごく自然な口調で忍足は彼女に尋ねた。

「そや、郁。ウチに寄りたいんやけどええ?」

「あっはい、大丈夫ですけど」

 忍足は彼女の返事に満足すると、わずかに口角を上げた。

「すまんな。ずっとお前の方に傘寄せとったら、逆側の肩ズブ濡れんなってもうてな」

「えっうそ!」

 忍足の右肩の惨状にようやく気がついて、郁はまた焦って謝るが、忍足はこともなげに笑った。

「ほんなら、ちょっとだけ待っとってな」



 忍足の部屋で、リビングのソファーに座って、郁は買ったばかりの雑誌を読みながら待つ。もう何度も来たことはあるけど、それでも他人の部屋に自分一人というのは、緊張するシチュエーションだ。しかも、となりのバスルームからはシャワーの音が聞こえてきている。

(でも、別に変な意味はないんだから……)

 郁はかぶりを振って、つきまとってくる妄想を振り払う。しばらくすると、脱衣所の扉を開ける音がして忍足が出てきた。

「っ! 先輩!」

 彼女は思わず忍足の方を見るが、ジャージのズボンを履いて上半身にシャツを羽織っただけの姿に、思わず目をそらす。そんな郁の手元に視線をやって、忍足は言う。

「なんや、お前ずっと雑誌見とったん?」

「だって、買ったばっかだったし……」

「ま、ええけどな」

 首に掛けたタオルで髪を拭きながら、忍足は彼女のすぐ横に腰掛けた。シャンプーの匂いがふわりと香り、ドキッとした郁は手元の雑誌に視線を落とす。

 そんな、ちょっと緊張している様子の彼女に気がついて、忍足は唇の端に笑みを浮かべた。だけどそれには触れずに、優しい声で問いかける。

「そういえば…… 郁、今日は金曜で明日は休みやけど、これからどないする?」

「えっ!? あっそっか」

 忍足にそんなことを訊かれて、彼女は弾かれたように顔を上げた。

「何や忘れとったん?」

「……忘れてました」

 照れ隠しなのか、郁は忍足からほんの少し視線を外して笑う。

「どうせ外は雨やし、帰るん面倒やろ。ウチでメシでも食ってく?」

 彼女のすぐ隣、手を出そうと思えばいつでも出せる距離で、忍足はそんな風に郁を誘う。

「うーん、でもあんまりお腹すいてないんですよね……」

 しかし彼女は妙に歯切れの悪い返答をする。けれど、不意に忍足の方に視線を戻すと言った。

「先輩、まだ髪の毛濡れてますっ」

「……は?」

 唐突にそんなことを言われて、忍足はきょとんとする。

「ちゃんと乾かした方がいいですよ!」

「……別にええやん。めんどくさいし」

(そんなことより、大切なのは今晩ナニするかやろッ)

 忍足は思うが、口には出さない。

「ダメですよ、自然乾燥は痛むんですよ!」

「そうなん?」

 確かにその通りではあるけれど、自分にとっては、そんなことは心の底からどうだっていい。だってオトコだし。

「そうなんですよっ! 先輩がめんどくさいなら、私が乾かします!」

 なぜかそう言って、彼女はドライヤーを取りに洗面所の方に行ってしまった。パタパタという足音が遠くなる。

「……何や、かわされた気ィするわ」

 忍足はポツリとつぶやいた。しかし壁の時計に視線をやって、ニヤリと笑った。

「ま、別にええけどな」

 時計は夕刻をさしている。そう、まだ焦るような時間じゃない。



「わ〜い、先輩の髪の毛サラサラ〜」

 そんな忍足の心中を知ってか知らずか、郁は上機嫌で忍足の髪を乾かす。ちょっと呆れながらも、忍足は彼女に問いかけた。

「……お前、俺の髪さわりたかっただけちゃうん?」

「いいじゃないですか!」

 さわりたかっただけらしい。忍足は目を伏せて笑った。

「ま、お前ならええけどな」

 ドライヤーなんて面倒なだけだったけど、彼女が上機嫌でやってくれるなら、これはこれでいいかもしれない。

「先輩、髪の毛みつあみにしてもいいですか?」

「……ソレはアカンで」

「は〜い」

 残念そうに唇を尖らせるが、彼女はそのままブローを続ける。そして忍足の髪を乾かし終わってから、ドライヤーのスイッチを切った。パタパタと小走りで洗面台の方に戻しに行く。



 小さな背中を見送ってから、忍足はソファーに座り直すと改めて今夜の予定を考える。

(メシは後にするとして、ほんなら……)

 しばらくぼんやりとしていたら、郁が戻ってきた。忍足の横にちょこんと座り、相合い傘をしていた時のように彼にぴったりとくっついてくる。

「……どしたん?」

 さっきは妙なことを言って逃げたくせに、今度は自分に身体を寄せてきた郁に、忍足は問いかけた。

「……なんかね、先輩とこうやって毎日過ごせたらいいなって思って」

 急に可愛いことを言い出した恋人に、忍足は笑みをこぼす。

「ほんなら、お前も努力せんといかんな」

 そして、部屋の隅の本棚に突っ込んである問題集を見つめて言った。

「今日は英語教えたるわ。お前にも現役で受かってもらわんと困るし」

「えー!」

ものすごく嫌そうに声を上げて、郁は忍足を見つめた。

「何でそんな嫌がんねん」

「だって、先輩鬼コーチ……」

 そんなことを言われて、でも何かを思いついたらしい忍足は再び口角を上げた。

「なら、お前でも興味持てそうな科目教えたるわ」

「……何ですか?」

「保健体育」

「よっ、余計いりません!」

 郁はまた焦りだす。その反応に気を良くした忍足は、にやりと笑った。

「なんで慌てるん? 雑誌のモデルに憧れるお前に、過度なダイエットの危険性について、講義したろ思うたんやけどな〜」

「せ、先輩のバカっ!」

 学年首席の医学部志望なのに、愛しの彼女にバカよばわりされて、だけど、忍足はうれしそうに笑った。壁の時計はまだ夜の八時にもなっていない。楽しい金曜の夜はこれからだ。

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