*Short DreamT*

□【忍足】全てを奪う嵐のように/前編
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「……今度は残るなんて認めない」

 そう言い捨てて、お父さんは出て行った。そのあとすぐに玄関のカギの閉まる音がして、クルマのエンジン音が聞こえた。ぬるい涙が頬を伝う。

「郁、大丈夫か?!」

 先輩の心配そうな声がすぐそばで聞こえる。

「……何や、オヤジさん色々とんでもないこと言うとったけど、お前知っとったんか?」

 聞かれたことに対して、首を横に振って答えた。

「何にも、聞いてないです…… 今日こっちに戻って来てることすら、知らなくて……」

 我慢しているのに、声にどうしても嗚咽が混じる。

「……そか」

「やだ…… イギリスになんて行きたくない…… 東京と大阪だって遠いのに、海外なんてイヤです……」

 そんな遠距離、私にはムリだよ。しかも、こんな形で向こうに行ってしまったら、それこそお父さんが日本に戻ってくるその時まで、あっちにいなきゃいけなくなるかもしれない。

「……今日あとで、お父さんのところに行ってきます」

 不安な気持ちを押し込めて、涙をぬぐって、私は先輩にそう告げた。

 何もせずにただ泣いているだけじゃ、本当に忍足先輩とお別れしなきゃいけなくなる。それだけはイヤだから、またお父さんと闘わなきゃ。一年半前と同じように。

「行ってお願いしてきます。なんとかこっちに残してもらえるように」

「……大丈夫なんか?」

「平気です」

 平気なわけなかったけど、私はそう答えた。

「……そか。でも、オトンどこにおるん?」

「―――です。いつもそこだったから、今回もそこだと思います」

 ホテル名を答えて、気合いを入れ直した。今度は私ががんばらなきゃ。大好きな忍足先輩と、ずっと一緒にいるために。



「……つーことがあってな」

 忍足は深刻そうな表情で電話越しの相手に語りかける。

『また大変なことになったねぇ』

 その日の夕方、忍足は自分の部屋から電話をかけていた。相手はジロー。これまでもずっとこの件の相談に乗ってもらっていた、忍足の元・部活仲間だ。

「ホンマにあの横暴なオトンぶん殴ってやりたいわ。アイツは泣くし」

 非常識呼ばわりされた時の、見下ろすような視線を思い出しながら、忍足はジローに愚痴をこぼす。

『でもさ〜 微妙だよねぇ今回は。家庭の事情だもんねぇ』

 だけど、ジローは珍しく歯切れの悪い返答をする。

「そうソコなんや。だから迷っとんねん。本当にアイツのためになるんはどっちなんやろな……って」

 ジローの言葉に同意して、忍足は眉間の皺を深くした。他のオトコが相手なら、それこそどんな手段を使ってでも奪い返すだけなのに。だけど、彼女の父とご家庭の事情が相手じゃあ……。

 一年半前の彼女を思い出す。イギリスに自分を連れて行こうとする父をなんとか説得して、日本にひとり残ったのはいいものの、やはり寂しそうにしていた。

『……けどこのカンジだと何もしなかったら、半年後にイギリス強制連行なんじゃない。侑ちゃんはそれでもいいの?』

「ええわけあるか! 絶対嫌やわ!」

 ジローの問いかけに、忍足は叫ぶように答えた。東京と大阪で六年も相当きつそうなのに、海外だなんてありえない。それで終わる関係とは思いたくないけど、実際問題むずかしいだろう。

『……だよね。でさ、今郁はマジでお父さんトコなの?』

「ああ。オトンのおるトコに行っとるハズやで」

 そこまで口にして忍足は、窓のカーテンを開けてから、彼女の家の方角に視線をやった。閑静な住宅街に、夕闇の帳が下りはじめていたところだった。



 同じ頃、郁は父が滞在しているホテルにきていた。オフィス街の中央に立地する、ビジネスユースには至便の高級ホテルだ。ロビーにはスーツ姿の宿泊客が行き交い、その中には外国人の姿もあった。

 高い天井からはシャンデリアのような照明がつり下がり、磨き上げられた大理石の床を淡く照らしている。それら全てが演出するのは、ラグジュアリーな寛ぎだ。

「……本当に来るとは思わなかったよ、郁」

 ラウンジのソファーに身体を沈めて、彼女の父はそう言った。

「……お父さん、私ね」

 刺すような父の視線を受けながら、黒いワンピースに身を包んだ彼女は、真剣な表情で切り出した。

「先輩のことが本当に好きなの。離れるのなんて耐えられない。だからそっちには行けない。高校を卒業したら、関西の大学に進学したいの」

「……そんな理由で、お前は受ける大学を決めるのか」

 低い声でそう答えて、父は吐き捨てるように言った。

「――話にならないな」

 そう言われることはわかっていた。けどやはり、いざその言葉を口にされると、心臓を抉られるような痛みを感じる。

「……ごめんなさい。でもちゃんと勉強して、いいところに受かるように頑張るから」

 声の震えを押さえながら、彼女は言葉を続ける。父に何と言われても忍足と離れたくない、その気持ちだけだった。

「郁」

 そんな彼女の心の中を、見通すように父は言う。

「お前があの先輩のことをどれだけ好きかは知らないが、あのくらいの年の子なんて、すぐに気が変わるんじゃないのか? 先輩も、もちろんお前も」

 ソファーから身体を起こして父はまた、彼女を見据えた。

「あのルックスで勉強もスポーツも出来れば、さぞかし人気もあるだろう。六年後も、あの先輩と一緒にいられるとでも思っているのか?」

 年若い彼女に現実を思い知らせようとする父の言葉に、しかし郁は食い下がる。

「……一緒にいるもん」

「先のことなんてわからないだろう。子供みたいなことを言うんじゃない」

 冷静に父は彼女を諭そうとする。だが、強い口調で郁は父に反論した。

「もう子供じゃないよ! お父さんに何て言われようと、私はイギリスになんて行かない!」

「……さっきも言ったが、あの家は年度内に引き払う。日本に残るとして、住むところはどうするんだ? お前はひとりじゃ何にも出来ない子供だよ」

 だが父も譲らない。冷水を浴びせるように、彼女に正論をぶつける。

 ラウンジの他の利用客が、チラチラと二人に視線を送る。声をひそめて話をしてはいるものの、ピリピリとした緊張感はやはり伝わっているらしかった。

「……ひどい、何でそんなこと言うの?」

 視線を落とし、郁は強く唇を噛む。

「――わからないか?」

 不意に父の語調が変わり、彼女はハッと顔を上げた。

「お前と一緒に暮らしたいからだよ」

 そう言った、父の瞳は潤んでいた。

「……お前を日本に置いていったときも、辛くて仕方がなかった。向こうに行ってからも、お前を片時も忘れたことなんてない。気持ちを分かろうとしないのは、お前も同じだ」

 はじめて見る父の表情に、郁の胸はしめつけられる。

「……お父さん」

 一年半前、父がイギリスに発ったときのことを彼女は思い出していた。ほとんどケンカ別れするような形で、自分が望んで日本に一人残ったのに、それから数ヶ月は寂しくて仕方がなかった。ずっと家族で暮らしていた広い家に、一人きりは辛かった。同じような苦しみを、父も感じていてくれたのだろうか。

「恋人なら、向こうで探し直せばいいだろう。向こうにも日本人の子弟は多くいる」

 震えた声でそう言って、父は瞳を伏せた。

「…………」

 そんな父に何も言えずに、郁もうつむいた。厳しかった父がたった一度だけ見せた涙を、彼女は思い出す。それは、自分と別れての海外赴任が決まったときの……。

「……何と言われようとも、今度はお前を連れて行く。必ずだ」

 強い口調そう言ってから、父は左手首の腕時計を見た。

「郁、今日はもうお前は帰れ。車を手配する」

「……いいよ。一人で帰れる」

「そうか」

 父はそうとだけ言うと、近くに控えていた給仕に視線を送った。



 ホテルから出て、郁はため息をついた。一体どうすればいいんだろう。イギリスに行きたくないのは変わらない。だけどあの目をした父を説得するなんて、自分にはできそうになかった。

 むしろあの辛そうな顔を見て、父のそばにいてあげたいという気持ちすら、心の奥には生まれ始めていた。

 しかし、父の帰国時期は未定。父を選ぶと言うことはすなわち、忍足とは別れるということだ。思い詰めた表情で、彼女は駅の方向に足をむける。

 まだ日が落ちたばかりとはいえ、秋の終わりの街は寒い。ワンピースにジャケットを羽織っただけの格好だった郁は、ふと立ち止まり、身体を震わせて空を見上げた。

 ビジネス街の中心だけあって、あたりには高層ビルが建ち並んでいる。その煌々とした明かりが作り上げる、東京の夜景は今日もまぶしい。冬の訪れを待ちわびるような華やかな街の姿に、思わず彼女は涙ぐむ。……イギリスに行けば、この景色ともお別れだ。

 そんな物思いに郁が囚われていたその時、突然携帯が震えた。表示された名前を確認して、あわてて彼女は電話に出た。

「はい、もしもし」

『郁! 大丈夫か?』

 聞こえてきたのは、耳慣れた忍足の声だった。緊張の糸が切れた彼女は、ポロポロと涙をこぼした。

「……先輩」

『今、向かいの道におるんやけど』

「えっ?!」

 驚いて、郁は道路の向こう側を見た。大通りの往来の向こうに、忍足が立っていた。

『そっち行くから待っとってくれるか?』

 小さく手を振りながら、忍足は彼女にそう言った。



 そのまま、二人は忍足の家に戻ってきていた。郁の家では、いつまた彼女の父が訪れるか分からないからだ。彼女をソファーに座らせて、忍足は切り出した。

「……オトンとは、ちゃんと話しできたん?」

「はい」

「そか。どうだった?」

 郁は首を横に振る。

「ダメでした。こっちに残るのは許さないって」

 父の言い分を、郁は忍足に話した。忍足はただ黙って、彼女の話に耳を傾ける。ひととおり話し終わった彼女は、涙に潤んだ瞳で彼を見上げた。

「……先輩は、私と離れたらイヤですか?」

「イヤに決まっとるやろ、当たり前や」

 強い口調での返答は、間を置かずに返ってきた。

「……俺はずっと、お前と一緒におりたい」

 忍足の真剣さに、彼女はまた涙をこぼす。

 父のことを思うと胸は痛むけど、やっぱり忍足と離れるなんて耐えられない。例え父の言った通り、あっという間に別れることになったとしても、だけどそれでも、この想いに賭けたい。関西についていきたい。忍足のために、そして自分自身のために。

 それはまるで、全てを賭ける恋のように。



 その日の夜。貴石をちりばめたかのような高層階の夜景を背に、郁の父は眼前の彼に向かって口を開いた。

「今日は千客万来だな。もっとも、仕事関係ではないが」

 不機嫌な表情で腕を組む。

「――何の用だね? 忍足くん」



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