*Short DreamT*
□【忍足】全てを奪う嵐のように/前編
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それはまるで、全てを奪う嵐のように。
「……だから『xは0でない』言うことは、xで割り算せぇ言うことなんや、わかるか?」
そう言って、忍足先輩は問題文のx≠0にマルをつける。
「……そ、それはわかるんですけど」
買い物から戻って来てから、約束通り先輩はずっと私に勉強を教えてくれている。まずは、出かける前にもやってた数学だ。得意科目なだけあって、先輩の解説は先生よりもずっとわかりやすい。
だけど、中身の詰まった授業がぶっ通しで一時間半……。先輩の表情を伺いながら、私は遠慮がちにきりだした。
「せ、先輩、そろそろ休憩しませんか?」
「休憩?」
嫌そうな顔で、でも先輩は壁の時計を見る。
「……まあ、しゃあないな」
不満げにそう言って、だけど先輩は私をやっと離してくれた。
逃げるようにキッチンに駆け込んで、いそいそとコーヒーの準備をはじめる。
お湯が沸くのを待っていたら不意に、さっきまでの勉強を教わっていたときのことが蘇った。
ずっとくっついてたから、なんだか緊張したな。あの優しい声も、ペンを持つキレイな指先も、全部大好きだ。……あんな鬼コーチだとは思わなかったけど。
コーヒーを淹れ終わって、お茶うけのクッキーと一緒にリビングのテーブルに持って行く。
先輩はソファーに座って足を組んで、新聞を読んでいた。新聞を読む先輩の表情が珍しく真剣だったから、つい気になって、お菓子とコーヒーを置いてから、私は横からのぞき込んだ。
「何の記事読んでるんですか?」
「……ああ、経済面やで」
ちょっと気まずそうな先輩の声が聞こえたのと、紙面の大きなリードが目に飛び込んできたのは、ほとんど同時だった。
『――社、イギリス事業のさらなる拡大へ』
針か何かで刺されたように、胸がチクリと痛む。自分のお父さんの勤め先がニュースになると、それが例えいいことでも、やっぱりなんだか落ち着かない。
事業拡大ということは、すでに向こうに行っているお父さんたちは、やっぱりまだしばらく、こっちには帰ってこれないのかな。当初の予定では、帰国時期は未定だけど、三年を目処に日本に戻ってくるはずだった。
「……郁のオヤジさんとこの会社はすごいな」
気遣うような先輩の声が聞こえる。
「別にすごくなんてないです」
新聞から離れてそっぽを向いた。こんな気持ちになるんなら、あんなもの見なければよかった。どうせいつも、ほとんど読まずに捨てているのに。
先輩の小さなため息が聞こえて、新聞をテーブルの上に置く音が聞こえた。急に、うしろからぎゅっと抱きしめられる。
「俺は、ずっとお前のそばにいるから」
真面目な声で言われて、涙が出そうになる。
「……大学は関西戻るのに」
わざと揚げ足をとったら、きつい口調で言い返された。
「お前も関西来ればええやろ」
「でも」
「別にお前は、大学東京やのうてもええんやろ。ならええやん」
私を抱きしめる先輩の腕に、わずかに力がこもる。
「楽しいで、関西。イトコとか向こうの友達にも、お前のこと会わせたいし会ってほしいし。道頓堀のネオンもなんばのデパートも、見せてやりたいし」
明るい言葉とは裏腹に、先輩の声は少し震えていた。
「それに、やっぱり離れんのイヤやねん。医学部六年もあるんやで。その間ずっと遠距離なんて俺はイヤや」
先輩の言う通り、東京と大阪の遠距離恋愛は大変だ。一緒にいられる時間もぐっと減って、色んなことが今までと同じってわけにはいかなくなる。それが六年。耐えられるのかな。
「だから、お前も」
先輩がそうつぶやいた、そのとき。ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。
先輩の腕が緩む。今日は来客の心当たりなんてなかった。妙な不安で心がざわめく。嵐の前ぶれみたいな、この予感は何なんだろう。軽い動悸を覚えながら、それでも私は先輩の腕の中から抜け出して、インターホンを取った。
「……ハイ、結城です」
『――郁か?』
受話器から聞こえたのは、低い男の人の声。忘れるはずのないその声に、全身から血の気が引いた。
「なんで……」
漏れた呟きに、玄関口のその人は、いたって簡潔に理由を説明してくれた。
『急に東京の本社に呼ばれてね。近くを通ったから寄ったんだ』
インターホンの受話器を置いて、私はあわてて先輩に告げた。
「……せ、先輩隠れてください! お父さんが来ちゃった!」
「はぁ!?」
先輩もびっくりしたのか、ソファーから立ち上がった。
「どうしよう」
忍足先輩とはいえ、部屋に男の子とふたりきりなんてまずすぎる。しかも、お父さんは家の合いカギを持っている。そして今日に限って、ドアチェーンはしていなかった。
ガチャガチャッ。そうこうしてる間に、玄関のカギを開ける音が聞こえてきた。
「ちょお待ち、オカンと一緒にイギリスちゃうん」
「そのはずなんですけど…… 先輩、荷物もってクローゼットに」
「無茶言うなや! 無理やで!」
「どうしよう、玄関に先輩の靴出しっぱなしだ」
「もう腹くくって挨拶するしかないやろ。って、聞いとるんか郁」
先輩の言葉は聞こえていた。だけど、これからの事態への恐怖心が先に立って、私は先輩の顔を見れなかった。玄関の方から足音が近づいてきて、そして、すぐそばで止まった。
「――久しぶりだな、郁」
おそるおそる、私は部屋の入り口の方を見た。一年半ぶりに見るお父さんは、いつもと同じ真っ黒なスーツを着ていた。襟元には、見覚えのあるロゴマーク入りの社章がついている。
視線だけを先輩の方に向けて、しらじらしくお父さんは言った。
「……そちらは、忍足くんだったかな」
明らかに、お父さんの機嫌は悪い。一人暮らしの家に、男の子を上げていたんだから当たり前なんだけど……。
「はい、お久しぶりです。お邪魔しとります。」
だけど先輩はしっかりした口調で、お父さんに挨拶してくれた。
「……お、お父さん! あのね、今日ちょっと先輩に勉強教えてもらってて」
無駄なことと理解しつつも、私は必死に言い訳をする。
「勉強?」
「そうなの! 先輩すごく成績よくて、――の医学部目指してて」
「ほう」
大学名を告げた瞬間、お父さんの表情がわずかに変わった。かすかな希望を感じる。だけど次の瞬間、それはあっさりと打ち砕かれた。
「だが、一人暮らしの部屋でふたりだけでとは、非常識なんじゃないのか」
不機嫌を露わにして、お父さんは私たちを見下ろすように腕を組んだ。
「近所には喫茶店も図書館もあるだろう」
こんなに露骨な言い方をされるなんて思わなかった。それでも私は言葉を続ける。
「……うちの方が近かったから」
「――すいません、ご挨拶が遅れて。秋の初めから、お付き合いさせてもろてます」
これ以上の言い訳は無理だと判断したのか、先輩が助け船を出してくれた。お父さんの目がすっと細くなる。
「それは初耳だな、郁」
睨むような目で視線を送られる。
「ごめんなさい」
「……だが申し訳ないが、それももう『終わり』だ」
「えっ?」
耳を疑うような単語がお父さんの口から飛び出して、私は顔を上げた。
「毎日きちんと新聞を読んでいるお前なら知っていると思うが、
社の方針でイギリス事業を継続して強化していくことになった。
少なくともまだ数年は、日本には戻れないだろう」
腕を組んだまま、お父さんは静かに続ける。
「郁、来年の春になったら、お前もこちらに来なさい」
その言葉は、まるで青天の霹靂みたいだった。
「聞けば最近は、日本もずいぶんと危ないらしいじゃないか。元々私は、お前をひとりでここに置いて行くのは反対だったんだ」
淡々とお父さんは続ける。だけど今度は残るなんて許さないという、言外の強い意志を感じて身体が震えた。
「いっ、嫌だよ! だいたい日本よりむこうの方が危ないじゃん! それに私、英語だって」
「語学は努力で済む話だろう。治安についても、むこうの住居は大使館のはす向かいだ。ガードマンも雇用する。お前を危険な目には遭わせない。この家も、もう引き払うつもりだ」
「そんな……」
断定的な口調で言われて、目の前が暗くなる。何も言い返すことが出来ずに、私は押し黙った。忍足先輩も何も言わずに、部屋に重い沈黙が落ちる。
ピリリリリッ。突然、誰かの携帯電話が鳴った。おもむろに、お父さんはズボンのポケットに手を入れる。発信者名をチラリと見て、そのまま電話に出た。
仕事関係だったのか、腕時計を見ながら早口で英語を喋って、お父さんは電話を切った。そして私に向き直る。
「……まだ話し足りない気もするが、会議があるからもう出るぞ。今回は数週間日本にいるから、続きはまたにしよう。会社の近くのホテルにいるから、用があれば連絡してきなさい」
言いながらお父さんは、携帯をポケットに戻した。
「郁」
改まって名前を呼ばれて、私はお父さんを見上げた。
「……今度は残るなんて認めない。必ずお前を連れていく。だからお前もそのつもりでいろ。わかったな」
とどめを刺すようにそう告げて、お父さんは踵を返した。
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