*ねこのひかる*

□11 最後の夜
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 昂ぶった情動を抑え込むべく、光は静の首筋に歯を立てた。いかんともしがたい欲望を発散しようと力を込めて噛みつく。

 こうするのはもう何度目だろうか。しかし、今回の噛みつきでは、光は加減を忘れていた。

「ッ……!」

 あまりの痛みに、静は顔をしかめて眉根を寄せる。彼女の薄い皮膚が破られて、暗赤色の静脈血が傷口ににじんだ。

 我を忘れた彼に無垢な素肌を傷つけられて、しかし静の胸には愛しさと喜びが込み上げる。

 まだ猫カフェからもらってきたばかりの、光の子猫時代。遊びや給餌の時間に興奮しすぎて落ち着きを失った光に、静はよく噛まれていた。その悪癖はすぐに直ったんだけど、あまりにも懐かしい。

 ――この傷跡がずっと残ればいいのに。生まれて初めて恋をした愛しい彼に、永遠に消えない傷をつけられたい。記憶だけでは物足りない。彼が生きた証を、彼と愛し合った証を、自分の心と身体に残して欲しい。

「……光、もっと……」

 我知らず、静はそう口にしていた。

「もっとして、光……」

「……静」

 彼を欲しがる彼女の言葉に、欲求を抑えきれなくなった光は、静の裸の腰部を押さえつけて、抜き差しのペースを上げていく。最初はたゆたうような緩やかさだったのに、今は打ちつけるような速さだ。

 光の激しい揺さぶりに、静は彼の肩口にしがみつく。振り落とされてしまわないように。

 そしていつしか、ついに光はそのときを迎える。勢いをつけた抜き差しが限界まで早くなった、その瞬間。光はありったけの力を込めて、充血しきった自分自身で彼女のその場所を貫いた。同時に。

「……ッ!」

 小さな呻きとともに、光は静の体内に真っ白な熱を注ぎ込む。彼女の中で自分のものが脈打つのを感じながら、光は夢中で静を掻き抱き、その唇に食らいつくように口づけた。

 静の頭部をシーツに沈めるように押しつけての深いキス。唇にキスをしたら猫に戻ってしまうとわかっていたのに、どうしても我慢できなかった。

 ――けれど。唇を離しても、光は猫の姿に戻らなかった。口づけを終えても、人の姿のまま。

 この世に奇跡があるとしたら、それは解けない魔法のことだ。そう、きっと今のような。

 魔法はいずれ解けるけど、解けない魔法は奇跡だ。唇を離して見つめ合った光と静は、涙を浮かべて微笑みあって、神様がくれた奇跡に感謝した。

 それでも光は、七時間後には猫に戻って、二度と人になれなくなるけど。この思い出は永遠だ。忘れてしまわない限り、ずっと自分たちだけのもの。



 思い残すことのないように強く愛し合った二人は、ベッドの中で裸で抱き合う。行為の余韻でいまだ昂ぶる身体を寄せ合うと、互いの胸の鼓動を感じた。

 激しい行為で汗ばんだ素肌や、上昇した体温にも、たしかに息づく命を感じる。温かい。生きている。当たり前のことのはずなのに、その尊さに二人は泣いた。

 ――今夜は一生の記念だ。絶対に忘れないよ。この思い出を忘れ形見にして、別々の運命を生きてゆく。

 一糸纏わぬ身体を重ねて愛を交わして、二人の心と身体に刻んだ深い爪跡。

 悲しみも苦しみも、ときめきも幸せも。全部この想いが、この全てを賭けた恋が、もたらしてくれた。



 常夜灯の灯りの中。毛布にくるまって、光と静は見つめ合う。まだ二人とも服も着ていない。

 寒い夜はいつもこうやって二人寄り添って過ごしてきた。裸の身体を寄せ合うのは初めてだけど――

「……静、好きや」

 涙に潤んだ瞳で、光は静に囁きかける。もう何度目だろう。けれど何度口にしても言い足りることはない。

「……私もだよ。光を好きになってよかった」

「静……」

「……私のこと、好きになってくれてありがとね」

「ッ……!」

 静のその言葉を聞いた瞬間。光の瞳からついに涙が溢れる。

 ずっと負い目があった。自分のせいで静を苦しめていたと。本当は自分なんかが好きになってはいけない人だと、ずっと後ろめたさを感じていて。自分の我儘な想いのせいで、何の罪もない彼女を茨の道に引きずり込んでしまったと思っていたから。

 しかし、光は今、静の一言に救われた。やはり彼女は自分の全てだ。飼い主で恋人で、女神のような救世主。家族であり、人生の伴侶でもある。

 短い一生だったけど、静とともに生きれてよかった。試練の多い苦しい恋で、辛いことも沢山あったけど。それでも、それ以上の幸せをもらった。不器用で幼くとも、愛し愛されて幸せだった。

 そばにいてくれてありがとう。一緒に生きてくれてありがとう。光は改めて胸の内でそんなことを考える。

「……光と結ばれて幸せだよ。私たち、やっと通じあえたんだね」

 頬を染めて微笑む静に、光もまた満ち足りた気持ちになる。口の端を上げて淡く微笑んだ。

 彼女と身体を繋げてようやく自分の心に生まれた温かなともしび。それがきっと愛なのだろう。

 ――やっと結ばれた。もう思い残すことなんてない。光は無意識にそう思う。



 最初はお別れなんて嫌だった。永遠に一緒にいたいと思っていた。

 けれど今やっとわかった。永遠じゃないからこそ、かけがえのないほどに愛おしく大切なのだ。限りある命のきらめきは、何にも代えがたいほどにまぶしく尊い。

 しかしそれは、余命わずかというところで神の奇跡が起きて、こうやって愛し合えたからこそ知ったことだ。

(……ありがとな、静……)

 愛してくれてありがとう。ペットとして家族として、そして恋人として。光は静を抱きしめる。静もまた彼の背に腕を回して涙をこぼした。



「……寝ちゃうのもったいないよ」

「また朝会えるやろ、今回は四百十分なんやから」

 約七時間。これなら朝まで一緒にいられる。

「……でも」

「……静は我儘やな」

 穏やかに瞳を細めて、光は静の頬を突いた。自分に甘えてぐずる姿すらもたまらなく愛おしい。これが最後かと思うとなおさら。

「……だって」

 不満そうにしながらも、しかし、静は次第に落ち着きを取り戻してゆく。そしていつしか、彼女は安心しきった様子で眠ってしまった。

 長い間、抱え込んでいた苦しみから解放されたからだろうか。その寝顔は穏やかで、眠りもとても深そうで、ちょっとのことでは起きないだろう。

 自分の腕の中で幸せそうに眠る静の姿に、光は安堵する。けれど、不意に全身が痛みだし、光は苦痛に眉を寄せる。視界がぼやけると同時に、意識と痛みが遠のいて。光は吸い込まれるように眠りにつく。

 愛する静を腕に抱いて穏やかに眠る光の姿は、とても満ち足りて幸せそうだ。しかし、その彼が目を開けることはもう二度となかった。



***



 カーテンから差し込む朝日で、静は目を覚ました。ベッドサイドの時計を見ると、まだ日が昇ったばかりの明け方だった。

 行為の余韻はまだ残っていた。まるで長距離を泳ぎ切ったような倦怠感。まだ身体はだるかったけど、静は幸せな気持ちに包まれていた。

(ついに光としちゃったんだ…… わたし……)

 裸の身体を毛布で隠すようにしながら、静は起き上がった。あらかじめ手近な場所に用意しておいた部屋着に手を伸ばす。いつまでも裸のままなのは恥ずかしく、そして季節柄少し寒かった。

 今は冬だ。最中は暖房をつけていて暖かかったけど、それが消えて数時間が経った現在は、裸では風邪を引いてしまいそうで。

 そそくさと部屋着を着終えた静は、カーテンの隙間から漏れてくる光に気がついて、窓の外を見た。

 薄日の射す冬の明け方。外は美しい銀世界だった。真っ白な雪に覆われた地表が、陽光を反射して淡く輝いている。

「わあ、綺麗……」

 静は感嘆の声を上げる。こんなに積もったのを見たのは一体どれくらいぶりだろう。

 美しい景色を目にすると、静はいつも光のことを思い出す。彼に見せてあげたい。空気の冷たい寒い季節は、なぜか切ないほどにそう思う。

 ビロードの夜空に瞬く星々のもと、二人で手を繋いで歩いた住宅街の小路。あたりを柔らかく照らすオレンジ色の街灯に、まぶしいコンビニの明かり。

 一緒に過ごした日常のそんな些細な光景が、今となっては胸が苦しくなるほど愛おしく感じる。

 静はカーテンを開け放すと、ベッドの方を振り返った。

「――光、見て! 雪が積もってるよ!」

 寝室に響く明るい声。しかし、その声には何の返事も返ってこない。異様なほど静まり返った室内に、静は本能的に違和感を覚える。

「……光?」

 ベッドを見ても、誰も使っていないように見える。人の姿の彼が眠っていれば、それだけ掛け布団が膨らんでいるはずなのに、それがない。まさかと思い、静は慌てて布団をめくる。

「――ッ!!」

 シーツの上には、小さな黒い亡骸があった。まるで眠っているように安らかなその死に顔は、彼が幸福に包まれて天に召されたことを物語っていた。

「光……」

 触れてみると、まだかすかに温もりがあったけど。死後硬直は恐ろしいほどの早さで進んでいく。温かく柔らかかった彼の亡骸は、あっという間に冷たい石のように固くなる。

 生前はあんなにも伸びやかでしなやかだったのに。冷え切ってコンクリートのように固くなった光の身体は、前足の関節をほんの少し折り曲げてやることすら叶わない。

「……ッ!!」

 小さな亡骸を抱きかかえて床に座り込み、静は声を上げて泣いた。彼の名前を何度も呼ぶ。

 ――ひかる、ひかる。

 せめて、朝目覚めるまで一緒にいたかった。人の姿でも猫の姿でも、どちらの姿でもいいから。こんなの。

「……早すぎるよ……」

 いつの間にか、窓の外には雪が舞っていた。ある美しい冬の朝。光は薄青く澄んだ空の向こうに、静かに召されていった。



 小さな箱にお古のニットを敷いてから、静は彼の亡骸をそっと安置した。隙間に白い花を詰めて、一輪だけ鮮やかなカーマインレッドのダリアを飾る。冬には咲かない花だけど、菊に似た花姿は弔事に相応しいと思い買ってきたのだ。

 深い赤は光の一番好きな色だ。そして、静の中学時代のセーラー服のリボンの色でもある。それが単なる偶然なのかは、今となっては知るよしもないけれど。

「……できた」

 静はポツリとつぶやいた。手製の棺の中央には美しい花に埋もれるようにして眠る猫の亡骸。その周囲には、愛用のおもちゃにブラシ、メタルチャームのついたリボンなど、思い出の品々を入れた。

 やがて、マンションの呼び鈴が鳴った。静は部屋の時計に目をやる。この時間ならおそらく葬儀業者の人だ。ドアスコープで相手の姿を確認してから、静はドアを開けた。

 立っていたのはまだ若い優しそうなお兄さんだった。手短に挨拶を済ませてから、静は光の亡骸の入った棺をお兄さんに手渡した。

 目の周りを真っ赤に腫らして、いまだに瞳を潤ませている静に同情したのか、お兄さんも涙ぐむ。

「綺麗な毛並みですね。なんていう種類なんですか?」

「……雑種なんです」

「そうなんですか。可愛がられていたんですね」

 元気だった頃と比べて、毛艶は悪くなったと思っていたけど。お兄さんの目には美しく映っていたようで、静は少しだけ嬉しくなる。

 自慢の愛猫だ。その気持ちは相手が天に召されても変わらない。きっと永遠に変わることはないだろう。これから先どんな出会いがあったとしても。

 改めて、お兄さんは目視で棺の中身を確かめた。入れられているものを見れば、静と光がいかに強い絆で結ばれていたかがわかる。

 美しい別れ花に、笑顔のツーショット写真、使い込まれて古びているのに、よく手入れされたおもちゃに道具の数々。いかに手を掛けて可愛がっていたか。

 お兄さんは小さく頷くと、しかし、申し訳なさそうに口を開いた。

「……こちらのブラシと金具のついたリボンは出して頂けますか。金属のものは燃やせませんので」

 くしの部分が金属でできているブラシと、メタルチャームのついた緑のリボン。静は返事をして、言われた通りに取り出した。

「……形見にすればいいですよ」

 穏やかな笑顔を向けられて、静は唇を噛んで頷いた。大きな瞳に涙が浮かんで視界がにじむ。しかし、静は泣かなかった。

 彼女が涙をこぼしたのは、小さな陶器の壺に入って戻ってきた、かつて彼だったものを目にしてからだった。



――そして、七年の月日が流れる。
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