*ねこのひかる*

□11 最後の夜
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 シャワーを浴び終えた静はベッドの上に座って、猫の姿の光の身体を温かな蒸しタオルで綺麗にふいてあげていた。

 バスタオル一枚を身体に巻き付けただけの静の姿は、とても肉感的で魅力的だ。湯上りの上気した肌は匂い立つような美しさで、湿り気を帯びた艶やかな髪からはシャンプーの香りが漂っている。

 しかし、光の身づくろいをしている彼女の表情は、穏やかで落ち着いていて、大切な人を慈しむ愛情深い女の子そのものだった。

 光の身体をふき終えた静は、彼を優しく抱え上げ、小さな声で問いかける。

「……光、大丈夫?」

 猫の姿の光はこくりと頷く。彼の返答に静は涙を浮かべて微笑んだ。そして、瞳を閉じて愛猫に唇を寄せる。ひとときのあいだ口づけを交わして。静が目を開けると、そこには人の姿の彼がいた。

 彼女の頬を一筋の涙が伝い落ちる。これで、最後。一線を越えてしまったら、もう二度と光は人間になれなくなる。だから今夜が、人の姿の彼と過ごせる最後の夜。

 光の瞳も潤んでいた。初めて出会ったころと比べて、ずっと精悍さを増した彼の顔つきに、静の胸が締めつけられる。いつの間にこんなに格好よくなったんだろう。かつての我儘な幼い少年の面影は、もうそこにはなかった。

 病気でやつれたせいだろうか。それとも、数々の苦難や試練が彼を大人にしたのか。

「……光、大好きだよ」

 その言葉は、ごく自然に静の唇からこぼれ落ちる。

「……俺も、愛してる」

 いつもは「知っとるわ」とか、照れ隠しではぐらかしてばかりだったのに。光は静の目を見つめて、真面目な顔でつぶやく。

 初めて聞いた光からの「愛してる」の言葉に、静はさらに涙をこぼす。ぶっきらぼうでそっけない彼からの、素直な言葉はとても嬉しい。けれど同時に、本当にこれで最後なのだと思い知らされて悲しくなった。

 光は静の頬に片手を伸ばした。指先で優しく涙をぬぐう。

「ごめんね光、泣かない約束なのに……」

 ぽろぽろと涙を零しながらも、静は光に謝る。

 泣かないというのは、光の病が発覚してしばらく経ってから、二人でした約束だった。苦しくても寂しくても、残りの時間を明るく過ごそうと、光の方から言い出したこと。しかし。

「いや、それはもうええねん」

 彼はきっぱりとそう言って、静を見据えた。

「もう泣いてええで、静。お前の涙は全部俺が受け止める」

「……光」

「泣くなとか無茶なこと言うて、今まで辛い思いさしてごめんな」

「……ッ」

 彼の真摯な言葉に静は喉を詰まらせる。思わず俯いた。固く閉じられた彼女の瞳から、美しい涙が頬を伝い落ちてゆく。光は静をそっと抱き寄せて、艶やかな髪を優しくなでた。



 ひとしきり光の胸で泣いたあと。静はおもむろに顔を上げた。

「……ありがとね、光。私も光のこと全部受け止めるよ」

 目元はまだ赤いけど、憑き物が落ちたかのようなすっきりとした笑顔。

 久しぶりに見た彼女の心からの微笑みに、光は胸を打たれる。

 やっぱり静が好きだ。たとえこれが最後だったとしても。同じ人間の男の子として生まれて、普通の恋が出来ればそれが一番だったけど。

 猫でも一緒にいられてよかった。一日わずかな時間でも、人の姿になって同じ目線で愛し合えてよかった。光は改めて思いを深くする。

「……静、ありがとな」

 口の端を上げて淡く笑って、光は彼女の気持ちだけ受けとってお礼を言った。

 最初で最後だけど、だからこそ優しくするつもりだ。昔のように自分の身勝手な欲望を押しつけたり、醜い感情をぶつけたりはしたくない。

 今の彼の心にあるのは、繊細で心の優しい恋人を大切にしたいという気持ちだけだった。自分のことなど欠片もない。

 かつての彼は真逆だった。彼女が好きだと口にしながら、しかし光は、自分の都合しか考えていなかった。静を通して、彼はいつも自分自身の幻を追いかけていたのだ。

 けれど今は違う。本当に彼女のことを想っている。以前よりもずっと大人になった自分に、光は気がつかない。

「……ほら、こんなぐしゃぐしゃにして」

 光はわずかに苦笑すると、静の泣きぬれた目元を指先でそっとなぞった。そして、そのまま彼女の頬に手のひらを滑らせる。

 二人の間に沈黙が落ちる。不意に光は真顔になった。濡れた瞳で静を見つめる。雰囲気を察した静がそっと瞳を閉じる。

 最初はまなじり、次は頬、そして首筋。静の顔のあちこちに光は唇を寄せていく。そして、光は静を抱きしめるとそのまま押し倒した。シーツの上で二人は抱き合い重なり合う。

 静は光の背に腕を回した。早く先に進みたい気持ちと、今のままこうやって互いの温もりを感じていたい気持ちと、先に進むのが惜しい気持ち。それらが全部ないまぜになって、二人は何をするでもなくじっとしていた。

 光はぼんやりと考える。以前、行為の最中に妖精二人に邪魔されたときはあんなにも悔しく、早くことを進めておけばよかったと後悔したのに、不思議だ。

 今この瞬間がこんなにも惜しく感じるのは、最初で最後だからだろうか。これを終えてしまったら、もう二度と人間になれなくなるから。……けれど、欲求に忠実な自分の下肢はしきりに何かを訴えてくる。



 しばらくして。

「……静、バスタオル取ってもええ?」

 静から身体を離して、光は彼女に問いかける。恥じらいに戸惑いながらも、彼女が頷くのを確かめて。光は自分の着衣を脱ぎ捨てた。下着姿になる。シーツの上に寝そべる彼女が頬を染めたのに、淡い微笑みで応えて。

 光は静の身体を包むバスタオルを解いた。緊張に息を呑み、静は身体を固くする。まだ部屋の灯りはついたままだった。そんな中で自分の裸を見られてしまうなんて。

 光の眼前に静の白い身体が晒される。ショーツだけを身に着けたしなやかなで美しい裸身だ。膨らんだ胸の突端は愛撫を求めてすでに勃ちあがり、ウエストは折れそうなほど細く、それなのに腰部は適度なボリュームがあって女性的だった。すらりとした長い脚も美しく、光の胸の内になでさすりたい衝動が沸き起こる。

「静…… めっちゃ綺麗……」

 彼女の裸身を見おろしながら、光は恍惚に浸った様子でつぶやく。

「光……」

 静は恥ずかしそうに頬を染める。自分の裸の感想を聞くと言うのはやはり照れ臭い。しかし、光には羞恥も照れもないようで、まっすぐな瞳で彼女の身体を見つめながら続ける。

「……ずっと、静とこうなりたかった。人になれんくなっても、こうやって愛し合いたかった」

 そこまで口にして、光は不意に言葉を切った。そして、喉を詰まらせると。まるで嗚咽を漏らすように続けた。

「……前みたいなんじゃなくて、今度はちゃんと」

 光の脳裏に、以前たった一度だけ静の身体を求めたときのことが蘇る。あのときは。静への愛などではなく、自分の不安を埋めるために彼女を求めた。

 自分の一方的な感情をただ相手にぶつけることが愛だと思っていた頃の、自分のためだけの行為。思えばあのときも、静に随分ひどいことをしていた。

 けれど静は不安そうにしながらも、懸命に自分を受け入れようとしてくれた。そのときの彼女の健気な姿を思い出し、光の瞳から涙が溢れる。

「光……」

 急に泣き出した彼を、静は心配そうに見上げる。しかし、光はすぐに落ち着きを取り戻すと、再び自分の目元をぬぐって、小さく息を吐いた。

「……絶対優しくする」

「うん……」

 以前も聞いた言葉だ。けれど、素直な静は感激に瞳を潤ませる。光は左耳の銀のピアスを外してベッドサイドに置くと、静の身体に覆いかぶさった。



 やっとこうなれた。ようやく結ばれる。静は光の身体の重みの全てを受け止めながら、これまでの二人の思い出を脳裏に蘇らせていた。

 猫カフェで出会って五年。ずっと一緒だった。嬉しいときも、悲しいときも。いつだって自分の隣には愛しい光がいてくれた。かつては猫で今は人間の男の子。どちらの姿でも大好きな気持ちに変わりはない。

 静は光の背に腕を回す。意外なほど大きなその背に、静は改めて涙をこぼす。今までは、我儘で可愛い弟のような彼を自分が守っていたと思っていたのに。いつの間にか逆転していた。

 困難な状況の中でも、思えば光はいつだって自分の出来る全てで静を守り支えてくれた。広く大きな彼の背中は、彼の愛情そのものだ。

 裸の肌を重ねながら、静と光はきつく抱き合う。今まではどんなに好きでも片恋をしているような感覚だったけど、やっと結ばれる。ようやく愛し合う二人がひとつになれる。

 やがて光の手によって照明が落とされて、部屋は常夜灯の灯りだけになる。淡く優しい光の満ちる薄闇の中、光と静は絡み合う。まるで、シーツの海で溺れるように。



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